書評日記 第499冊
鳥人大系 手塚治虫
角川文庫 ISBN4-04-185134-3

 5月に札幌に帰省し、ひさしぶりに『火の鳥』を読み返していた。再読してもひと駒ごとの科白が頭の中に先走ってしまうぐらい、幾度となく読み返し、そして、真剣に読み耽ったものだが、今回読み返して改めて感心したことがある。「手塚治虫は天才だ」ということだ。
 当たり前といえば当たり前のような気がするが、努力して為し得ることと、天才だけが為し得ることとを二分してしまうのは、浅墓であると思っていた。だが、今ふたたび読み返して、ふと腑に落ちるように「天才なのだなあ」と思ってしまうのは、私が私自身と手塚治虫との距離をはっきり認識できるだけの目を持ち始めた、ということだと思う。
 そして、トータルに小説(文学)を考えよう&創っていこう、という姿勢を自分自身が納得のいくように確認し尽くしたからだと思う。
 
 で、『鳥人大系』を読むのは初めて。いわゆる、『ブラック・ジャック』や『火の鳥』のような明るい(ということにしておく)面の手塚治虫の作品を好んで読んでいた私には、『鳥人大系』は手の出し難い作品であった。いや、『ばるぼら』や『MW』などの作品を読まなくても手塚治虫の漫画は読んでいけるし、十分楽しんでいける。が、手塚治虫しか為し得なかった部分を落としてしまうのは惜しいことではないか、と思ったりもする。梶井基次郎を読むように、手塚治虫の漫画の落ち穂広い(にしては『鳥人大系』は一個の作品として十分に独立し得るけども)をして、コードウェイナー・スミスやP・K・ディックやカート・ヴォネガットを交えてみるのも面白いだろうし、実際、私の中では混じっている。
 
 『鳥人大系』は、その名のごとく「大系」。宇宙人の支援により脳組織が活発になった鳥は人間を支配し始める。人の歴史を鳥の歴史に移し替えて風刺するのは、皮肉の常套手段かもしれないが、ひとつのエピソードではなく、「大系」として始まりから終わりまで網羅的に博物学的に書き出していくところに作品の厚みがある。
 ともすれば、この手の疑似歴史は、人間の歴史をなぞり批判する(ヒトラーの登場とか原爆への風刺とか)ところに陥ってしまいかねないが、ポポロというキリストが出てくる以外は、さほど現実の人間の歴史とは似通っていない。また、崩壊した人間の栄華&腐敗政治を前提にして、鳥は鳥なりの社会を掴んでいこう、逆に見知らぬところで模倣してしまう知的生命体の性(著者・手塚治虫が想像力を範囲内に限定した、と考えられる)を示しているのかもしれない。
 ハードSFと呼ぶには、科学根拠の薄い前提条件とそれに纏わるエンディングなのだが、これは漫画というジャンル特有な自由な発想(悪く言えば投げやりな基盤)を意味するのか。いや、そうはならないと思う。学問的な根拠を追い求めて、現実に固定化された概念に執着してしまうのでは、あまりにも想像力の枠を規定し過ぎる。それは、恋愛か殺人かサスペンスかに面白味を求めてしまう小説への衰退を意味してはいないか。
 まあ、『小説の技巧』の言うところの、修辞学としての小説なのだが。
 
 その昔の発想に対するおおらかさと、現在のジャンルを越えた小説の形態、とは同じものなのだろうか。妙に頭でっかちになってジャンルの壁を越えることだけに執着してしまのは、あまり面白味のある発想とはいえないだろう。
 となれば、他人の発想をしっかりと見ておくのも悪くはない。ランダム文章作成器がおもしろいのであれば、別なのだが。

update: 1999/05/31
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