書評日記 第500冊
少年アリス 長野まゆみ
河出文庫 ISBN4-309-4-338-7

 読んでいる途中に以下のようにメモを書いた。
 
 このような小説を読むと感想、いや、文学評論風の感想を書くことに疑問を感じてしまう。単純に、読みそして面白いと思う、だけで十分ではないかと思ってしまう。それで良いのではないかと考えるわけだ。
 
 と、読み終え、解説(高山宏)を読むと、納得がいった。
 そう、解説で云われている通り、長野まゆみは萩尾望都のように「少年」を中心とした一連の〈少女〉達のための物語なのだ。
 だから、普通の小説で云われるところの現実性を『少年アリス』は必要としない。
 逆に幻想的であればこそ、語句の美しさを求めて、エクリチュールの中だけの情感を追跡するだけで良くなる。
 これは、現実に即した空想(例えば近未来SF)のような暗黙裡に語られる社会批判――すべての物語が政治的なものから逃れられないという意味で――とは、全く別のものであり、明示的に示された一定のルールを物語の中に適用させているためだ。現実に対して、小説無いの現実は寄りかからない。だが、「少年」という語句から与えられるイメージは、読者の中に共通している「少年」という語に対する憧憬を崩すことがない。
 それは、一定のカテゴリの中でしか通用しないルールではあるけれども、現実社会的な集団とは次元の異なる、別種のルールである。
 そのルールが、長野まゆみの一連の小説または物語の作風を束縛しているし、束縛しているからこそ、見えてくるもの立ち上がってくるものがある。
 
 解説で高山宏が云っているが、一種人工的な響きを持つ見慣れない漢字の表記、アリス、蜜蜂、耳丸、という登場人物の名前から感じるものは、少年と卵という組み合わせを含めて、失われてこそ美しい別世界と失われなかった別世界が表現されたものが其処にはある。一種、少年になることはない〈少女〉の妄執のようにも見える。
 だが、単に歪んだものとしては片づけることができない、効率(=現実社会)とは別の世界を何処かに留めることを良しとする。ル・グウィンの『カミング・ホーム』のように歴史から自由なのである。
 
  と、無理矢理、感想を引き出してみるけれども、あまり論理的なものにはならない。そういう行為が無粋なように感じる小説(物語)である。

update: 1999/06/03
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