書評日記 第502冊
子どもを救え! 島田雅彦
文藝春秋 ISBN4-16-317740-X

 初出「文学界」平成8年1月号から平成9年10月号まで。
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 千鳥がイコール島田雅彦であるのは疑いない。また、最後の方にある「ユリシーズのように戻ってきた」の一文と、この後に書かれている『ミス・サハラを探して』の冒頭の「はっきり言ってユリシーズが嫌いだ」の一文とが呼応するのだろう。
 
 『子供を救え!』というタイトルは強烈すぎておいそれとは使えない。あたかもダイオキシンを始めとする環境問題や、政治的な問題、青少年の犯罪、戦争、エネルギー問題、のような地球規模の問題を扱うような大上段の印象を最初に読者に与えてしまうからだ。だが、夫婦間の不和による東条英雄(東条英機のパロディか?)が妻と二人の子供を殺害することによって彼自身の人生の問題を解決するのに対して、主人公・千鳥=島田雅彦は家庭からの逃亡によって「殺人」という最終手段を避けるに至る。
 果たして、その手段が、小ドンファン風の千鳥にとって一番有効な形であったかどうかは不思議であり、不和の主原因が千鳥姫彦の不倫にあるとすれば(千鳥自身は、東条の裁判において判事の陳腐な性倫理をあざけるのであるが)、なんら解決に至っていないような気がしないでもない。
 しかし、家庭の数だけ生活があるように(このことを『子供を救え!』は強調する)、なんらかの問題への対処は本当の意味でのケース・バイ・ケースである以上、当人同士によるとある帰着は、一般道徳観念とは別のところにある。
 言わば、干刈あがたが離婚を主題にして小説を書き続けたように、一般常識では埋めることができない、一般常識に束縛されているからこそ埋めることのできない「場所」を描き、回答を出す(これは島田雅彦自身の解答でもあるのか?)。
 ただ、不倫・セックスを前提にした解決方法は、万人にとってあまり納得のいくものではないだろう。いや、あまた「不倫」なり「性表現の自由」なりに執着し過ぎるあまり、家族の崩壊を前提にした「独身者」の生き方をするのは、あまりにも都会的ではないだろうか。
 
 これを読んでいて、気付いたのだが、島田雅彦の住む「郊外」は、都会の周辺という都会(または首都・東京)を中心にした郊外、という意味に過ぎないのではないか。都会が無くなれば存続しない郊外は、都会と共に崩れ落ちるものではないのか。それとも、そのような虚な繁栄をする都会の周辺としての郊外を意味しているのか?
 
 気になったところだが、公判のシーンは、被告・検察官のやり取りは、あまりにも架空すぎて、現実味を失ってはいないか。刑事裁判であるから、被告のプライベートや家族観・性交渉に立ち入ることは弁護人が異議を申し立てるの
ではないか。
 あと、後半にある日記は、現実に書かれる日記と随分かけ離れてはいまいか。小説内の道具として存在するものであり、物語の流れを作るものだから、実際に書かれた日記とは別ものであって構わないのだが、少し作者の意図に沿い過ぎているきらいがある。

 とはいえ、夕方に読み始めて、午前1時に読み終える勢いは、興味深い作品であることを示すものだろう。

update: 1999/06/14
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