書評日記 第501冊
インザ・ミソスープ 村上龍
読売新聞社 ISBN4-643-97099-5

 読売新聞夕刊 1997年1月27日から1997年7月31日。
 
 読み始めた時の第一印象は、高校を出たばかり(20才)のケンジのイメージが、妙に高齢に感じること、フランク(35才)に対する15才の年齢差が感じられないこと、ケンジの彼女(ジュン・高校生)との会話が相応の幼さが感じられないこと、であった。それぞれの年齢を明記して設定してあるにも関わらず、すべての人物が著者・村上龍の年に見える(読める)のは何故か? 厳しく言えば、文学的な小説世界の設定に対する力量の欠如、なのだが、いま読み終えて私が感じるのは、そんなことは村上龍の作品には大切なことではない、ということである。
 と、一方で奥泉光の『石の来歴』(芥川賞受賞作品)を読んで「文学的な正しさ」が、村上龍の小説に存在する魅力――私がそれを好むか好まないかに関わらず、実際、否定する場合が多いが―とは、相反するところにあるのではないか、という疑問を持つに至る。
 
 事実、『インザ・ミソスープ』は朝読み始めて夕方読み終えるほどのスピード感を持っている。小説内の時間が3日間しかないのだから、半年間に渡る連載時にこの作品を読んで、単行本になった作品を読んだ時と同じ感想が出てくるかはあやしいのだが、すくなくとも、通して読む分には、作品の量と読むスピードと作品内時間とがあまりかけ離れないで読み通すことが出来る。
 真ん中あたりにあるケンジの「殺人」に対する自問自答は俗っぽくて一種のくだらなさを持つのだが、これが他の作家の作品よりも浮いてみえないのは、村上龍だからだと思う。
 言わば、年を取ってしまった村上龍は、20才という若さ(に見えないのが不幸なのだが)を持つケンジの思考手順を模倣することができなくなっている。いや、もともと模倣する気なぞさらさら無いのかもしれない。そういう意味では、もう少し年齢を上げてみても構わないと思う。
 
 あとがきで村上龍が書いているように、偶然にも、神戸殺人事件の始まりと終わりが、作品『インザ・ミソスープ』の始まりと終わりに合致する。果たして、「小説は現実を超えることができるのか」また「小説は現実の模倣にすぎない」という使い古された言葉を書いてしまう恥ずかしさとは別に、彼の作品は現実の殺人事件の持つ社会性とは切り離され得るし、フランクの持つ「過去」と少年Aの持たない「過去」とは別世界のものであり、平たく比べることは出来ない。
 一種の古めかしさを持つこの小説が面白いと思うのは、(村上龍常套手段の)殺人描写の長丁場――連載時、何日分だったのか――とケンジの自問自答であろう。『ラブ&ポップ』に見られる保守臭さもあるのだが、そのあたりがほどよくミックスされた作品になっていると思う。
 
 と、文学的学問的嗜好とは別の小説の姿が『インザ・ミソスープ』にあると思う。社会批判とも違う。

update: 1999/06/04
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