書評日記 第525冊
日本語練習帳 大野晋
岩波新書 ISBN4-00-430596-9
文章読本で役に立ったのは本多勝一の「日本語の書き方」である。長く解り難いセンテンスを、短い文に区切ること、読点の付け方、主語と述語の関係、などが書かれていて、本多勝一自身が書くように「小説には向かないけれども」普通のわかりやすい文章を書くために必要な技術が詰まっていた。
「日本語練習帳」は、もっと基礎的な部分から始まる。いや、もっと基本的な疑問を解決するところから始まる。日本語文法の難しさは「ハとガの違い」に尽きるのではないか、と思えるほど、この部分を詳細に解説している。
特殊な文章である「小説」を書こうとするとき、先に書かれた膨大な小説で書かれた文章を読むことは必須である、と私は思っている。だから、意識して小説を読む。かつて、漫画を描こうと思っていたときに風景を線画としてみるように習慣と同様に――とはいえ、ロクな漫画を描くことはできなかったが――文章の巧拙、特殊な用法、テクニカルターム、硬くて難しい単語、を拾っていく。玖保キリコが「キリコのこりくつ」で「笑いについて分析する自分」を見るように、どのように書くことができるのか、を小説を読みながら習得していこうとする。
そんな中で、いわゆる「わかりやすい」文章とはなんだろう、という疑問に至る。本多勝一が言うように、小説は普通の解説文とは大きな隔たりがある。とある作家(名を失念)が公務員時代に上司に書類の書き方を納得しながら教わったように、小説の持つ文法&文法は、普通いわれるところの日本語の文章には収まり切らないものがある。
金井美恵子の「文章教室」が私にとって面白くなかったように、文術として優れたものをかき集めたとしても、小説全体として――描こうとする内容自体に問題があるのかもしれないが――優れたものになるとは限らない。
私は志賀直哉を読まないが、三島由紀夫の膨大な小説群(全集にすれば38巻になるそうだ)の中には、フィッツジェラルドのような駄文も多く含まれることが分かるぐらいには、小説というものを知っている。
筒井康隆の朗読会に行き「関節話法」と「魚濫観音」を聴いたとき彼の短編小説がいかに芝居の科白に適しているか再認識した。大江健三郎の「語り」の姿勢は、私にとって内的な声を使って文章を聴く者の自然さを勇気づけてくれている。
update: 1999/09/24
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