私がシュタイナーという名前を知ったのは建築の本だったと思う。幻想的な絵画を思わせるシュタイナーの講義ノートを編集した建築の本だった。二度目は、加賀乙彦の『永遠の都』。これには、シュタイナー教育の潮流を引くヴァイオリンの先生のところに通う娘が出てくる。三度目は、子安美知子の
『「モモ」を読む』。ミヒャエル・エンデがシュタイナーの下流にあることと、シュタイナー教育とはどういうことをするのだろうか、ということで読む。後は、クレヨンハウスにある児童用の玩具。シュタイナー教育に沿って作られているという。
「神智学」という本がオカルト・コーナーに並び、その著者がシュタイナーであることを見れば、現代科学とは程遠いところにある神秘的な分野、イコール現実の科学には全く役に立たない分野の一端を担っている、と思ってしまうのだが……、この「シュタイナー入門」を読んでも、著者・西平直同様に、私もシュタイナーの真否学を心から信じることはできない。
ユング心理学の読み解く古代の象徴を鵜呑みにすることが難しいのであるから、シュタイナー心理学をそのまま受け入れることは難しいに違いない。だから、「心から信じることができない」ながらも、それは本当のことかもしれない、現在ある科学知識で解明できないものが全て嘘であるとは限らない、という疑似科学特有の助けを得ながらも、シュタイナーの作る「教育」の姿に私は惹かれてしまう。
シュタイナー派の学校を出た人が何の職業に就くかと言えば、官僚にはならない。あるいは社長にもならない。一般的に、再び教育者、芸術家、音楽家、変わり者、になる。様々な分野に進出する、ということは、一般的に言われる「日本的な大会社に勤めるひと」にはならない、ということでもある。何が人にとって幸せを生むか、と考えれば、日本的な成功を第一に目指すならば、シュタイナー的な教育は必要ない。むろん、将来的に何をするか、は未成年の頃に何をしたか、何をしたかったか、何をし続けていたか、という継続的な行為によって培われるものだから、単純に学校以前に決めることは出来ないのだが、日本の学校教育に悲観するのであれば、はじめから、それに期待しない手段を取るのもひとつの選択肢だろう。ヒッポファミリーのカレッジも同じだと思う。
フロイトが分析的であり、ユングが治療的であるならば、シュタイナーは継続した教育である。フロイトとユングが異常者と正常者の間を埋めようとしているならば、シュタイナーは正常者――何を以って「正常」とするかは解らないが――から達成へと向かおうとする心理学である。
ただ、シュタイナー的各種の学問が単なる人生理論に陥らないのは、あくまで実践で行えること、同時に、実践にて行われて来たことを、中心に語って来ているからだろうか。
もちろん、物質体、エーテル体、アストラル体、自我、という言葉=現象を心底納得し、単なる理論以上に身に付け行動することは今の私――と限定しておく――には不可能なのだが、そうであっても構わないか、と思うぐらいには頑なな現代科学から遠ざかりつつある。
そうなると、横尾忠則の宇宙人もそうなのかもしれない。
……やっぱり、無理かな?
「気になるひと」というのが正直なところ。