書評日記 第528冊
毒薬としての文学 倉橋由美子
講談社文芸文庫 ISBN4-06-97672-9
倉橋由美子の「パルタイ」を読んだ時に思ったことは、この歳にこれほどの思想に耽溺できるとは羨ましい、ということだった。三島由紀夫を追い駆けるような彼女の文体は、小説「スミヤキストQの冒険」と全く同様に、「毒薬としての文学」というエッセー集にも見ることが出来、そして楽しむことができる。
硬質な文体を好んで書くという作家が澁澤龍彦であり、日本文学の日本文学たる本質を描くのが三島由紀夫であり、日本語によって語られる大江健三郎の小説や、箱の中の実験室としての舞台を描写するかのような安部公房らと、まったく同じ部分を倉橋由美子は共有していると思う。一種、旧さ――それを「時代遅れ」とするべきではないことは知っていても――を思わせる、彼女の書く小説の主題は、「デミアン」や「人間の絆」が描くような早急な現代社会には不必要な(と思わせる)遅い流れにあるものを含んでいる。
このエッセーに含まれる「坂口安吾論」と「「反埴谷雄高」論」は、文芸評論として、性別が同じところにある中島梓とは全く違った様相を帯びている。それは、かつて男性的であった小説・評論を正式に受け継ぎ、それでも性別としての女である倉橋由美子の個性が滲み出ているものである。というのも「育児日記」を中心として、学生時代の「パルタイ」が究極に無性的であるのに対し、評論が模倣としての男性的である、と私には見えるからである。
不思議と私にはひとりの生きている女性(人間)としての倉橋由美子は想像しがたい。一個の個性の固まりとして、「倉橋由美子」という名詞があるだけのように思える。
update: 1999/10/20
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