書評日記 第529冊
I・L 手塚治虫
小学館文庫 ISBN4-09-192059-4

 夏目房之介が「手塚治虫はどこにいる」で、「I・Lは天才の大いなる失敗作だ」と評していた。ファウストを思わせるような映画監督(男)と誰にでも変身可能な女優との組み合わせは、解説で語られるように、最後には陳腐とも思える恋愛話に落ち着いてしまう。
 一種のヒューマニズムの束縛が手塚治虫を束縛する。「I・L」や「ばるぼら」はその自分自身の呪縛から逃れ出るための足掻きである、と夏目房之介は言う。だから、失敗作ではあるけれど「大いなる」という形容詞がつく。
 
 実は、「手塚治虫はどこにいる」を読んだのは、私が手塚治虫の漫画と決別しようと思ったためだった。これは夏目房之介が「手塚治―」の冒頭で書くように「ここで決着をつけておきたい」と同じ意味である。「火の鳥」や「ブラック・ジャック」に含まれるヒューマニズムと、今、「癒し」を中心に語られるヒューマニズムとを別のものと考えたいために、「手塚治虫」という名詞として一定の枠に入れておきたいと思ったためだ。
 無論、手塚治虫の描いた漫画群が一定の枠に収まるわけもない――という考え方を止めようと思った――のだが、「I・L」の持つ魅力は、未完成で描き切れなかった作品だからこそ想像してしまう部分だと思う。つまり、こう書きたかったのだろうが時間的な制約があって無理だった、という感じである。
 だが、そういった善意的な空想を無しにして「I・L」という作品だけを注視すると、最初の大風呂敷が最後になって映画監督が女優に惚れてしまうというありきたりな結末は、いくらオムニバス形式の作品だとはいえ、あまりにも形式に陥り過ぎている。また、各作品も手塚治虫自身の自己撞着を思わせる結末に終始しているような気がする。
 それでも尚且つ魅力的に見えるのは、漫画界の範囲に収まらない小説的な筋の確かさがストーリーにあるからだと思う。実際は、一種の旧さを匂わせるものなのだが、「流行」を追いつつも朽ち果てにくい部分を持っている証明なのだと思う。

update: 1999/10/20
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