書評日記 第544冊
五衰の人 三島由紀夫私記 徳岡孝夫
文春文庫 ISBN4-16-744903-X

 一九九七年 第十回新潮学芸賞受賞。

 文庫本の新刊の本棚に猪瀬直樹著「ペルソナ 三島由紀夫伝」(こちらは未読)と並んでおいてあるを見て、商戦なのかそれとも偶然なのか悩みいままで手に取らなかった。
 私は三島由紀夫愛好家を自負するわけではないが、多少なりともファンという立場でもあるので、どちらを買い読むのかといえば「伝」よりも「私伝」といった三島由紀夫の個人的風景を掻い摘んでみたかったと言える。
 本篇「五衰の人」で語られるように著者である徳岡孝夫は一記者として作家三島由紀夫に三度接したに過ぎない。だが、生前の三島由紀夫が「友達なぞ誰ひとりいなかった」と独白しているところから、編集者や楯の会の者を別とすれば、市ヶ谷の出来事を正確にかつ確実に伝えてくれるものは記者の徳岡孝夫であった、ということだろう。
 だからという訳ではないが、「五衰の人」の中で徳岡孝夫は三島由紀夫の文学に踏み入って、言い変えれば三島由紀夫の書いた小説を踏み荒らしてはいない。最後の日本文学者としての自負(今となっては最後の日本文学者は中上健次なのだろうけど)は、頑なとも言える天皇崇拝から自衛隊体験入団、ボディビル、切腹という無駄とわかっていても武士道ならばの人生を駆け抜けた勢いに繋がる。筒井康隆が三島由紀夫の演説を忠実に(?)再現するように、徳岡孝夫は彼の目から見た三島由紀夫の姿を忠実に紙の上に写し取っていく。それは〈三島文学〉としてあらわされる後世からの比較・迎合・非難ではなくて、三島由紀夫自身が戦争が終わった時に二十歳であった頃から人生の余興をどのように暮らしていったか(それは寺山修二にも当てはまることかもしれないが)、芥川龍之介や太宰治が早世した史実を踏まえて何を行動しようとしたのか、その結果が華々しく散るという〈美学〉であったにせよ、彼のカリスマ性がどのように徳岡孝夫の目に見えていたのか、文壇の空疎または栄華とは全く別のところにある一般的な事実の連なりに焦点を絞って、まさしく軍神から五衰となってしまうひとの姿を書いている。
 果たして三島由紀夫は自らを神と偽っただろうか、と考える。彼に殉じて行われたもうひとつの死。昨今の新興宗教の不祥事(?)、天理教・原理・イスラム教・創価学会・日教組、そして、日の丸の旗と君が代とはちょっと質が違うような気がする。行動がイコール過激さに繋げなければならない訳ではないが、学生運動を横目に見て、確かに徳岡孝夫の言うとおり生死を賭けた(同時に死生を賭けた)ところにしか本物は無いのかもしれず、同時にベトナム戦争を取材した彼の言葉通り「戦争が悪いのは麻薬的な魅力のせいだ」。
 そういうところで三島由紀夫の私生活は危うい。常に公的であり最期まで公的でありつづけた実験体はみずからの野心と共に正しく消えるしかなかった。其処には私的な言葉でさえあたかも小説の一節のように形作られた不幸(同時に至福)が見えるような気がする。

update: 2000/01/25
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