君は小人プロレスを見たか 部雨市
幻冬社アウトロー文庫 ISBN4-87728-816-3
私が初めて小人プロレスラーを見たのはTVではあるが筒井康隆の断筆宣言の「朝まで生テレビ」だった。「ブリキの太鼓」を始めとして映画には小人が出てくるがテレビに放映されることは許されない。ふと、紅白歌合戦の審査員に「五体不満足」の著者が出ているのを見ると、彼ら小人の〈異形〉さ(著者・部雨市が〈異形〉という単語を使っているのでそれに準じよう)は、身体障害者の〈異形〉さとは別の次元にあるものなのかもしれない。
著者・部雨市が小人プロレスラーに興味を持ち取材を始めたのは彼自身が双子であるという社会の目を強いられてきたからだと云う。NHK「おかあさんといっしょ」のドレミファ・ドーナッツというぬいぐるみ人形劇では双子のプードルが出てくる。そのテーマソングがかつて(今は変更になっているが)「ふたりでひとつ」というあたかも双子は二人で一人前かのような視線、揃いという容貌、または幻想を強いられてきた、と全く同じ被意識が部雨市にもある。そこから決して普通ではない存在である自分、スライドして普通の容貌を持たない小人、スライドして小人プロレスラーに焦点を置く。
だが、異様な容貌を持つ小人から、きれいな(という形容詞を当て嵌めることができる)小人、と症状はさまざまである。列記しておけば、下垂体性、原発性、ダウン症候群、クレチン病、ターナー症候群、軟骨異栄養症、思春期遅発症、正常低身長、甲状腺性、性早熟、副腎皮質ホルモン過剰、精神社会性、とある。ただし、「小人」というひと括りの〈異形〉者としてまとめられてしまうと、彼らはイコール障害者となり排斥されるか保護されるか、という極論に達する。実のところ、身近らのハンディ=特化された才能を活かし、小人プロレスラーという「芸」によって生きるやり方(「白木みのる」もそうだと思う)は多かれ少なかれ誰もが行っている特殊技能による金銭を得ること、と全く変わらない。…はずである。
冒頭で描かれる女子中学生が小人プロレスラーの登場に笑いを失い、そして、笑いを取り戻していくシーンは、女子中学生という「潔癖性」のメタファーを現代社会の〈異形〉に対して行う「かわいそう」と「常識的な」の羅列に当て嵌めている。
「ブリキの太鼓」に書かれるベブラの言葉、「君は舞台の前の観客であってはいけない。舞台に上がるべき存在なのだ」という言葉を小人プロレスラー自身が糧にしていること、これは「小人」という比喩と「小人」という現実の混交なのであるが、しかし、人がそれぞれであればこそ、一辺倒ではない生き方・暮らし方を選択することができる、と思う。
「精神病者は一番最後に残されるのだ」という柳田邦夫の息子の言葉を思い出す。(「犠牲〈サクリファイス〉」)