書評日記 第552冊
ありきたりの狂気の物語 チャールズ・ブコウスキー
新潮文庫 ISBN4-10-212912-X

 既に『パルプ』を読んだ後なので、『ありきたりの狂気の物語』に混ぜ込まれている駄文の多さにそれほどうんざりしないのだが──「駄文」の多さの理由は、ブコウスキーが多作家のためではなく、なにもかも吐き出すために起こった当然の帰着であることは『パルプ』の訳者の言葉に詳しい──、初めてブコウスキーの短編を読んだか、(私のように)『街で一番の美女』の次に立て続けに読んだ場合は、やっぱりげっぷがでてしまう。
 とはいえ、超短編集を読んだ時や、南アメリカ短編集を読んだ時と違って、粒の揃っているくだらなさ、あるいは真摯さは、十分に魅せられるに足るものをブコウスキーが持っていた、ということを知ることができる。私の場合、南アメリカ短編集を読んだ時、その中でひときわ光っているガルシア・マルケスの短編『美しい死体』が他の小説を鈍らせてしまっていると感じたと同時に、〈南アメリカ〉という括りが、〈日本〉という括りと同様に意味のないことに気が付き──つまりは、大江健三郎も筒井康隆も村上龍も「日本小説」という括りにしてしまう無理さが含まれていること──、マルケスの短編を再読するに至ったのだが、それと同じように、一種カート・ヴォネガットと思わせる風貌をブコウスキーに重ね合わせ、詩と書き殴りに魅了されつつ、同時にそれらの小説を読んで好感を持ったブコウスキーという作家に対し、それらの作品とは全く別の単なるひととしての「ブコウスキー」にも惹かれつつある。つまりは、彼の生き方そのものに魅了されるのだと思う。
 
 んが、性別的に男あるいは精神的に男しかブコウスキーの小説は受け入れられないかもしれない。アメリカの文豪であるヘミングウェイにしたって──ブコウスキーがヘミング風であり、彼の小説に追従したのは偶然ではあるまい──、一種、男性小説的な理解の仕方しかできない狭さがある。それを〈狭さ〉と言い切り去ってしまうか、女が女性的なものを以て作品を作っていく──乃南アサはそうだと思う。少なくとも『幸福な朝食』はその路線だ──ように、男が男性的なものを以て作品を作っていくのも悪くはないだろう。尤も、社会的に男が優位であることに注意する必要があるかもしれないが。
 すくなくとも、オスという性別を持つ私にとっては好ましいものをブコウスキーは持っている。反吐とファッキンとアスホールとなんとかは、まあ、フランク・ザッパ的でもあり、好みというものはそういうものなのである。こういう生き方をしても構わない、という逸品だと思う。

update: 2000/03/22
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