書評日記 第553冊
黙阿弥オペラ 井上ひさし
新潮社 ISBN4-10-302324-4

 芝居を見る直前に劇場で買った。隣にあった文庫本400円也に気づかずに新刊を示して代金1100円を払ってしまった。糞ッ。
 
 『パルプ』を本で読んで、『パルプ・フィクション』をビデオで観た後なので思わず(あるいはワザと)口が悪くなってしまうが、井上ひさしの言葉の微妙さ&遊びの追求は筒井康隆(あるいは私…としておきたい)とは違うのだが、同じ道筋にある。
 森博嗣の小説の解説に「森小説には日本語の間違いが皆無である」という一文がある。言葉というものは生きているのに死につつある文法に沿う必要もないと思うし、死に瀕している美しい文法に身を捧げようとは毛頭思わない私にとっては、日本語の正しさは常に流動的であり正しいとも正しくないとも言えない中に〈正しさ〉がある、という矛盾が好ましい。まあ、分かりにくい文章というものがある以上──森博嗣の小説は分かりやすい文章に分類されると思う──、過度に悪い文章(手直しが必要な文章)はあるかもしれないが、絶対的に〈正しい〉文章というものはあり得ない。
 
 ところで、『黙阿弥オペラ』の小説(台本)を読むと、芝居の黙阿弥オペラが実に忠実に台本を再現していることを知らされる。これは、井上ひさしが特に科白廻しに注意を払って黙阿弥オペラを書き上げたことを示しているのだろうし、同時に一種逼塞せざるを得なかった荒削りな芝居──初演から3年というのは長いのかどうか私には分からない──だった、ということなのだろう。
 最初の赤ん坊が最後の赤ん坊につながるという伝統的な輪廻を思わせる終幕は珍しくはない。宮崎駿が日本を代表するアニメーション作家になった時に付随してしまった垢が、井上ひさしにも付いているような気がしてならない。もちろん、劇作家が劇作家を描くという難しさを克服(?)したことは注目に値するものの、なにかと説明的になりすぎる──『コメの話』あたりからだろうか──ストーリーに説得あるいは啓蒙のにおい絶対さによる息苦しさが感じられなくもない。
 
 が、ともあれ、芝居を観て思ったのはもっとオペラの部分がほしかった。結局のところ、オペラを書かなかった黙阿弥なのだが、だからこそもう少し派手に願望的に描いてあっても良かったかな、と思う。もちろん、一介の読者の願望にすぎないのだが。

update: 2000/03/24
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