書評日記 第557冊
魍魎の匣 京極夏彦
講談社文庫 ISBN4-06-264667-6

 京極夏彦の二作目。『姑獲鳥の夏』ではそれほどの注目を浴びることはなかった。が、『魍魎の匣』でブレイクした、とある。
 
 同じミステリー小説、同じ時期にデビューしたということで、どうしても森博嗣と比較してしまうのだが、彼よりも京極夏彦の方がマニアック度は高い。というか、プログラマである私にとって森博嗣が描くコンピュータを中心にしたトリック&日常よりも、京極夏彦が描く京極堂のオカルトチックな再度ストりーの方が興味をそそられる。このあたり高校生時代に司馬遼太郎の歴史小説で知識欲を満たしていたことに似ている。「歴史」という現実に即した知識を埋めることに執着していた時期があった、ということだ。
 まあ、私の好みは別として、『魍魎の匣』内に散りばめられているオカルトは、登場人物である京極堂が語る弁舌の真偽を問わずとも(実際、彼自身、小説内で「あれは口からの出任せだ」と言っている。尤も、本当に虚偽であるかどうかは知らない)十分に楽しめる。平井和正の『幻魔大戦』で繰り広げられる青年会(という名だったと思う)内の弁論や、半村良の『妖星伝』で繰り広げられる宇宙理論、あるいは沼正三の『家畜人ヤプー』、『鼻行類』、『薔薇の名前』、『ドグラ・マグラ』と同じように、虚構と現実が入り交じった形で出てくる「真実」に没頭することができる。
 『魍魎の匣』内での「私」が紋切り的な思考=一般読者の陥る思考に終始する。これに対して、京極堂がひとつひとつ解明していく。オカルトに対する誤解もそうだし、宗教に対する誤解も解く。超能力者やお祓いや宗教団体に対する論理的な見極めは心地良い。これは、作者・京極夏彦が多面的な視点を十分に持っている、あるいは逆方向を眺める余裕・客観性を常に持とうとしている、ことを示しているのだろう。もちろん、そんなことは小説家にとって必要条件ではないのだが、私が『魍魎の匣』を堪能できたのはその部分があたからだ。
 
 江戸川乱歩に匹敵するのか、と問われればそうかもしれない、と私は思う。私は乱歩の熱烈なファンではないので、乱歩の隣に京極夏彦を置いてもいいような気がする。早計か? 少なくとも、今後、彼が同レベルのものを書き続け、そして、ミステリー&オカルトを中心とした集まり&交流(先日、ダビンチという雑誌で水木しげるを中心とした座談会が掲載されていた)を続けるならばその名は十分に残り得ると思う。
 まあ、海野十三とか夢野久作とかの隣でもいいけど。

update: 2000/05/21
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