人の心はどこまでわかるか 河合隼雄
講談社+α新書 ISBN4-06-272003-5
訳あって日記形式の戻してみよう。人の対して食傷するほど年齢を重ねてはいないけれど、どこか安全なところに引き篭もってしまうのは得策ではない。400枚という数に嫉妬するならば400枚という枚数を書いてみれば良いのだ。簡単なことだ。ひょっとするとさくッと千冊まで続けていけば何かが見えて来るかもしれない。宮台が云うように悲観的に現状を維持するのではなくて楽観的に構えてみよう。カート・ヴォネガットのように。あるいは、骸骨の上に踊る一休禅師を描く河鍋暁斎のように?
久しぶりに河合隼雄の本を読む。本を買うときはバランスを考えて買うようにしているので他に「悪への招待状(河竹黙阿弥)」、「幻想文学」、「フッサール」を揃えた。「人の心は─」は、一番最後に読むつもりだったのだが、日曜の昼頃に起きて1時間ほどで読み終わった。
「人の心はどこまでわかるか」と問われれば即座に誰でも(でもないか?)「わからない」と答えが出るだろう。精神科医だって心理学者だって作家だって人の心を完璧に分かるわけではない。誰もが微妙な位置で心理学者と社会学者を演じている現代社会に於いては人間という社会生物は他人の心あるいは自らに害を為す敵の動きに敏感である。筒井康隆の書く老齢という「敵」以外集団であれ個人であれ多層社会なり没社会交渉なりに逃げることは必要な能力となる。このあたりは浅田彰の「逃走論」に詳しい。だが、目の前にある一般的な社会その人個人が属しているあるいは属しているであろうと考えたい社会に対して齟齬が生まれれば心が苦しくなる。イコール日常生活がままならなくなる。むろん、〈普通〉に生きることなぞかなわないのであるから、軋轢が生まれる社会環境をきっかけにして別の道筋の可能性を模索するのもひとつの生き方には違いないのだが、過去においての目標と自分に対する期待と周りからの視線あるいは受けていると幻想する自分の姿、他人の眼、常識、大衆という集団、あるいは大衆に等しい共同幻想、または集団が持つ遺伝子、など諸々の事情があって──個人的には一本の事情だと思うのだが──目の前の社会生活を営むことが唯一の正しい方法と結論付けてしまうことがある。……まあ、「日本社会で異才は育つのか」(というタイトルだったかな?)という日本特有の風土が内外心身に外挿されている限りその場から完全に自由にはなり得ないのでなんらかの形でコミットしていくしかない(という諦め?)が必要なのだが。
少なくとも普通には生きまいという手法を学ぼうとし始めた時、一般的な中央値あるいは平均値に埋没することを極端に嫌うことになるのだが、その尺度は一体なにを基準として中央値としてなにを基準として埋没というのか、に尽きる。
悪漢、異才、有名人、何か大きいこと、犯罪すれすれのスリル、あるいは、犯罪行為による他己認識、突発的な犯罪──万引き行為と殺人行為とは何処が違うのだろうか?──、山本直樹による性犯罪的な漫画を産み出すことによる回復行為、「悪いとは何か」という認識以前にある報復(実刑判決あるいは死刑あるいはエリート路線から外れるという恐怖)の認知のバランスの悪さ。
と、そこまで極端ではないにしろ、個人的な心理への理解を試みることは自己の反省が社会学ではない心理学には含まれている。少なくとも河合隼雄の説くユング心理学からは隙間見えてくる。
「治療」という言葉に敏感で治療してやったとか、治療したことによって学会で発表できるとか、ひいては有名になる、ということとを避け、反対の方向へと進む。河合隼雄自身が有名人であること、に対して私は未だ回答を得ていないのだが(老人的特権とか年期というものかもしれない?)、少なくとも自分の信じる道と世の中から見て離反しないであろう道(非常識ではない道)とを共存させるために重要なポイントが含まれていると思う。
あるいはカフカのように人生を過ごすのか、そこは日常生活を過ごす気持ち的に難しいところなのだけれども。