書評日記 第561冊
7月2日が最終日だったので慌てて行く。東部美術館に行くのは小学校の頃の北斎展以来だったか。
暁斎という名を聞いて覚えていた、と思ったのだが実は芳幾だったらしい。こちらは角川ソフィア文庫で買った明治時代の浮世絵新聞の挿し絵画家だった。黒部(それとも黒ん坊だったか?)のように宮武外骨の路線だと思って見に行ったのだが全くの勘違いであった……というものの全くの見当違いではないのが不思議なところで、暁斎の描く偽狩野派(と自ら称す)の主題は骸骨、鬼、地獄、幽霊と続く。勿論、中国古典の人物を描き鶴も亀描く。鍾馗や竜頭観音や美人画も描く。才能才鬼溢れる江戸から明治に掛けての鬼才であった。……どうもこのパターンが多い。
観れば能狂言に詳しく自らが舞うこともあるという。河竹黙阿弥の提灯の図案もしている。埼玉に河鍋暁斎美術館があるのでいつでも見に行ける。慌ててみる必要もなかったのかもしれないが、たまには毒気を身体にそそぎ込むことも必要であろう。しかも人出に食傷した時なぞなおさらだ。
狩野派といえば創設者を除いてあの平板な屏風絵を思い出す。花鳥風月を描きその線をマニュアル化して弟子に写本させる。幕府御用達の襖絵の展覧会を皮肉めに見に行ったこともあるのだが、その後に即売していた棟方志功の絵に感動したのはもっともなことだ、と自分の目を信じたものだが、河鍋暁斎の絵を観ると、狩野派のマニュアル化と一個人としての嗜好とがうまく共存していて面白い。北斎漫画風のものあり歌麿風でもあり無難な花鳥風月あり、と描き分けていく。それはサラリーマン社会にいる特殊な才能、と思えなくもないのだが、河鍋一門を為していたのであるから、それほど社会へ融合していた訳でもあるまい。
ただし一種の芸術性には足りず狩野派の中で培われた最高技術の極めを彼は持っていたかつ絵として描き出したと見えなくもない。技術に溺れたわけでもないのだろうが、暁斎の才能が技術に負けたような気がしなくもない。鍾馗や観音や美人を描く時の彼の筆は随一であるが狩野派の末裔から抜け出ない。果たしてそれが彼自身の意図であったのか限界であったのか社会性であったのか私には分からない。
娘の暁翠は父暁斎の指導のもとに河鍋一門の後を次ぐ。初の女性日本画教授だそうだ。百福図と呼ばれるたくさんのお多福の掛け軸は面白い。たくさんの人数を丁寧に描く。北斎から手塚治虫まで続くモブシーンの面白さを彼女も知っているらしい。唐沢なをきもそうかな。
と、にしても一定技術を習得し生活基盤の一部とする。全てではない。一部を生活に充てる。生活が成り立ってから芸術が為し得る。河鍋暁斎の晩年を知らないが、平穏に過ぎたであろう。尤も、棟方志功も宮武外骨も平穏だったのだろうが。
update: 2000/07/03
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