書評日記 第563冊
スメル男 原田宗典
講談社文庫 ISBN4-06-188176-4
半月前に読了した。
一言で云うなれば青春小説。庄司薫の薫くんシリーズあるいは村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」、高橋源一郎の「さようならギャングたち」、戻って来て「十九、二十」というところだろう。前半に全く関係して来ない二人の天才少年が出てくるのは漫画的に唐突であるけれど、連載ものの青春小説(連載していたかどうかは知らない)と思えばそうでもない。
六川という科学者の友人、その恋人、レポータとなった元恋人、天才少年二人、中国人のギャング、という取り合わせはアクション漫画の典型を作るのに十分な素材である。ラストシーンの幕引きも申し分ない。青春小説としてはそんなものだろうと思う。
ひと言「漫画的」と言ってしまうのは小説内世界でまとまってしまう狭さを感じるからだ。その空間は小説あるいは漫画を楽しむ上では十分な広さを持っているのだが、何かを考えるにしては狭い。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を浪人時代に読んだ時、歴史小説が必ず持っている事実による現実世界への繋がりを感じた。尤も、後になってその空間は司馬遼太郎が求める坂本龍馬の姿を投影していたことに気付き、教科書的な一面ではなくいろいろな角度から眺める(あえて裏側の歴史から見る必要はないのだが)ことが出来、ひいては様々な価値観に基づいて人は動いていることを知った。そういうものが「漫画的」なものからは排除される。極端に言えば「ファンタジー」であるのかもしれない。以前自分に定義付けたように「ファンタジーとは読者=子供に混乱を与えないようにひとつの価値観に基づいて書かれているもの」なのだろう。だから、多面的な読み方をしようとしても難しく、むしろ愚かしい行為となる。「ほんとうはこわいグリム童話」のように心理学的に裏の意味を探る必要はない。そのままを受け取ればよい。ある意味では学校の読書感想文的に物語の筋道をたどれば良い。
この青春的なものに対して思索的なウンベルト・エーコやフッサールやバルトといった思想にかぶれる(と思っていないが……ちょっぴりそういう気分を味わいたくもなる)のも必要かと思う。同時に杉浦日向子の「呑々草子」を読み下す。ただ、我孫子三和の「楽園で行こう」を続けて読む気力がなくなってくるのと等しく(これが川原由美子の「ミルク・ハウス」のパロディに過ぎないという理由もあるのだが)、感情だけを頼りに読むにはいささか頭が堅くなってしまったのかもしれない。いや、彼女が出来ると少女漫画/恋愛漫画が読めなくなると同じように、私自身の不満が変容して来ているのだろう。
ただ、冒険ものと呼ばれる小説をほとんど読まない――谷甲州の山岳小説さえ読まない――ために一種一辺倒な登場人物達の動きに物足りなさを感じてしまうのかもしれない。景山民夫を好かない理由はここにあるのだろう。
とはいえ、吉本隆明の「共同幻想論」だけを読んでるだけでは詰まらない。オーム、ライフスペース、法の華を三つ巴にして各グル達に論争させれば如何に面白くなるか/面白くなくなるか、と考えてみる。
update: 2000/07/06
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