書評日記 第564冊
フッサール 加藤精司
清水書院 ISBN4-389-41072-5
人と思想のシリーズを買うのは親鸞以来かな……とはいえこれが二冊目なのだけれど。
一方で杉浦日向子の「呑々草子」、一方で吉本隆明の「共同幻想論」、一方で「フッサール」を読んでいるのはバランスがいいのか悪いのか。まあ、笠井潔の駆シリーズの副読本としてフッサールを読むのは斜に構えて読むという程度のものだろう。
とはいえ、心理学と自然科学の二面性を繋ぐものとしての現象学は駆シリーズを読むごとに深くなっていく。というか、最後の厚い二冊にちょっと辟易してしまって(現在上巻の3分の2あたりで頓挫中)本来の(?)現象学に日和ってしまうのはどうなのだろう。推理小説化された現象学から意味を読み取るのか、フッサールそのものから現象学を学ぶのかと云うところだろう。
「事象そのものへ」という探求の仕方は客観や主観とは全く別ところにある。心理学的な自己と他己のせめぎ合いに終止符を打つことが出来るのではないか、という仄かな期待が私にはあった。が、この「フッサール」を読む限りそうでもなかった。いや、フッサール自身の著書を紐解けば掴めるのかもしれないが、少なくとも紹介記事的なこの本では表面的な部分しか知ることはできなかった。
しかし、学問的な知識のため込みを目的とはしていないので(ましてや大学の単位のひとつとして勉強しているわけでもなく)、シュタイナーの「神智学の門前にて」と同じように門の前に辿り着いた或いは辿り着かせて貰ったという感じはある。清水書院の新書を読んで思うのはとある難しい学問・思想と呼ばれるものに対して単なる歴史的な紹介に留まることなくまさしくかの対象を研究している人達が書いている、という安心感を持つことができる。それは当たり前といえば当たり前のような気もするのだが、批判的でもなく啓蒙的でもなく、ごく信用する或る人の業績としてひとつひとつを紹介していくことはなかなか難しい。一見教科書的な地味さを持つ本ではあるが、教科書ほど教育的ではない。あくまでも信頼関係に基づく書き方が為されているような気がする。
と、現象学とは全く別の感想になってしまうのだが、いきなり現象学そのものへの言及に至るのは私には荷が重かった。論理的であったり数学的であったりするのであれば理系出身である私にとって苦ではないのだが、その根底にある自然科学と心理学を融合するための解決方法(しかし現象学は方法論ではない……らしい)の戸口に立つためには何らかの導き役が必要だった、ということだろう。
さらりと読み流すにはいささかしんどい。が、たまには頭の体操をしておかねば腐ってしまうか、と。
update: 2000/07/06
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