書評日記 第566冊
似顔絵 山藤章二
岩波新書 ISBN4-00-430675-2

 土曜日にQXエディタのオフ会へ。会費7000円は高いかな、と思ったが行ってみれば幾らであっても一緒。辛口の菊水美味しゅうございました。「呑々草子」を読んでいたために御酒が美味しい。阿佐ヶ谷に帰って来たのは10時半過ぎで思ったより早い時間だった。阿佐ヶ谷の駅前の本屋に入って本を買う。と、寝て日曜日の9時頃に目が覚めて(酒が入ると熟睡できるので早く目が覚める)読み終えた本が此。
 
 似顔絵が批評のひとつであること、肖像画とは違った批判精神を含んでいること、様々な似顔絵のパターンがあること、書き文字=詞書=山藤章二の「独り言」によって似顔絵に直接語らせることができること、全て頷ける。
 山藤章二は派閥とか保守派とか権威が嫌いで独自のイラストを描いている人なのだが、ブラック・アングルを始めとして彼の地位は今や揺るぎないものになっている……と思う。

 一応「岩波新書」なので何らかの形で〈似顔絵〉が論じられている(と山藤章二自身も言っている)。似顔絵の簡単な歴史と、山藤章二自身が塾長である似顔絵塾と各生徒達(というのかな)の絵解き、山藤章二自身の絵解き、そして芸人とテレビとの関係。
 テレビが芸人を駄目にする、というのは頷ける。尾形イッセーの芸はテレビでは発揮されない、かどうかは定かではないが、そのまま茶の間に飛び込んで来る瞬間芸に対して先の見通しを立てることは無意味なことだ。有名になることとテレビに出ることがイコールになり、逆に宇多田ヒカルのようにテレビメディアに乗せない売り出しの仕方をする。テレビメディアがスノッブ(俗物的)でありこれに反対し続けるのは松任谷由実以来続いていることなのだが、別のメディア(特にインターネット=次世代メディアという売り込みの仕方、最先端という価値観)がある以上、テレビだけが一番有名になる近道という訳でもない。ものの、やっぱりテレビの影響は大きい。
 で、芸の顔も素の顔も等しくテレビメディアに垂れ流しにされてしまうと、裏の部分を書き辛いというのは正しい。ナンシー関や石川三千花のように似ているような似ていないような形で似顔絵を商売にしていく人も出てくる。これはヘタウマとは違って山藤章二とは違った才能ある作風としての似顔絵=作品の違いなのだろうが、いわゆる政治家批判の似顔絵とはちょっと趣が違う。
 
 と、しばらく似顔絵を描こうとしていた時期があって過激な悪意を込めて絵を描いた時があったのだが余りにも毒素が強すぎるのと、知った人しか書けないので止めた。政治家が描けないのでは余り意味がない。
 パロディ、文体模写、という形で(個人的に)戯文を書くとがあるけれど、果たしてそれは似顔絵に通じるのか?な。
 
 土曜日に高野に行った。キャラウェイが「さようならギャングたち」に出てくる娘の名であることを教わる。おお、筒井康隆のパプリカもしかり。となれば、何か香辛料の名前で小説を書いてみるかな。

update: 2000/07/09
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