書評日記 第565冊
脳のなかの幽霊 V.S.ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー
角川書店 ISBN4-04-791320-0
今日は七夕というのに雨。旧暦で祝えば晴れているのにと話しつつ相手は寝こけている。壁に貼り付いて寝ているおでこが痛くないのかと気遣う。明日はQXエディタのオフミ。夕方には颱風が過ぎていることを祈る。雪印のチーズの会に行くそうだが大丈夫だろうか、豪華粗品なぞ呉れるのではないか、と話す。渋谷のヒルトンホテルの前の工事塀が取り外されつつある。浮浪者のおじさんは消えている。この颱風の中何処にいるのか、と想う。
「脳のなかの幽霊」は随分前に読み終わった。「ザ・マン・フー」の演劇を観てから原作であるオリバー・サックス著「妻と帽子を間違えた男」を読み終え、派生先として「脳のなかの幽霊」を選んだ。ラマチャンドランとブレイクスリーの共著ということになっているが、インド出身の心理学者ラマチャンドランの方の文章が印象に残る。インド人特有の哲学的思考を楽しめるという理由もあるのだが、「脳のなかの―」の最終章にある〈クオリア〉に対する言及はひどく正しく感じ、翻ってラマチャンドランの見解の正しさ(論理的な正確さも含めて)を認めることができる。〈クオリア〉というのは認識する時の直観を示すのだが、この直観と等しく扱われるものに現象学がある。笠井潔の「哲学者の密室」は未だ上巻で頓挫中なのだが、フッサールの入門前書を買おうと思い立った(いちおう読み通した)のは、ここからの派生結果になる。そうなると〈クオリア〉の示すものは「共同幻想論」に続くのではないか、ユングが言及する共同幻想としてのUFOの存在と等しくないか、となればミシェル・フーコーのナントカという本(「共同幻想論」と対になる本だ、題名を失念した)も読むべきだ、ということになる。
さて、「脳のなかの幽霊」に話を戻せば、幻肢が痒いということ、自分の足が他人の足のように思えること、左認識が欠けること、ものの詳細なディテールは分かるが薔薇という名詞が出てこないこと、ひらがなは分かるが漢字が分からないこと、ポストに葉書を入れることは出来るがどうやっていれたのか分からないこと、哲学的賢さ神秘的体験が癲癇器質と根を同じにすること、芸術的才能が異常さと紙一重或るいは同一であること、などなど、人が平均的な人として社会生活を送るかたわら、特殊な才能と欠陥と亢進、鬱病と躁病に平均たるバランスとはなにか、また人が認識するとはなにか、を知ることが出来る。
瀬名秀明著「BRAIN VALLAY」(というスペルだったかな?)がある面白くなさ/面白さを持っているのは科学的先端性を極めて人間的であろうとする小説という分野(その頃の対局に渡辺淳一著「失楽園」があった)のそのまま持ち込んだことにある。最近のSFの傾向かもしれないが人間中心の科学技術を肯定しつつ別の意味で人間を排除した科学性=形式を持ってくる。この対局に中上健次の著作があるのだが、こちらの方は頓挫中。ウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」あたりまで来ると学術っていう感じがするのかな。それとも平野啓一郎著「日蝕」あたりで止めておいても十分なのかも。
ともあれ、そういう小説的なディテール一切なしで「脳のなかの幽霊」で知識的な欲求そして数々の派生先を求めることができる。意識とか脳とかいうデカルト的な(と使ってみるが「デカルト的」って一体なんなのだろう?)探求方向とユング心理学的な探求方向と私自身の志向性とが十分にマッチする場所にこの本はある。
1999年7月に初版で、1999年12月には第五版だからベストセラーなんだろうなぁ。角川書店ではあるし、売る戦略を踏襲しているのかな。にしてはMLで見た記憶がない。
update: 2000/07/07
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