書評日記 第580冊
ホーム・パーティ 干刈あがた
新潮文庫 ISBN4-10-120211-7
夢庵で饂飩を食べながら夏目漱石に匹敵する人物を探す。日本文学の祖であってカリスマ性があって膨大な知識を持っていて交流の広い夏目漱石――事実はどうだか不明。イメージはそんな感じ――と同列に扱える人は誰だろうか。梅原猛と云うのだが、う〜む、納得はいかない。いまひとつ。手塚治虫か黒澤明か。ミシェル・フーコーかチャーリー・チャップリンかアインシュタインか、これは外人だからペケ。となれば遠藤周作か大江健三郎か安部公房か。大江健三郎が妥当なところかなぁ、と意見の一致をみるのだが、思えば夏目漱石は50歳位で没。となれば、年齢的には村上春樹あたりじゃないの釣り合いが取れないのか。日本の文学の巨匠に匹敵する人を日本の文学界から探そうとしている矛盾かな、と。密かに私は筒井康隆――交流という点では山下洋輔とか山藤章二などの異種間交流が盛んなわけだし――を推すのだが、相手の方が納得がいかない模様。カリスマ性という点では村上龍でも構わないのか。夏目漱石が老成という点で日本文学を極めて行ったのであれば今の平均寿命を考えれば70歳台の作家が老成の域なのかもしれない。と、最近巨匠がばたばたと死んだ。文学界も昔よりも広くなった。座談というか会ってみたい人。向こうのテーブルで同じく饂飩を啜っているのを見てみたい人は誰かと考えてみた。話し掛けるのは畏れ多いか、あッと驚くようなアイドルか。ただ、そんな間隙だけで人は推し量ることはできない。多分、夏目漱石が夢庵で饂飩を啜っていたとしても一見したところ現代の大学教授と大して変わらないかもしれない。養老孟司とも云っていたな。養老孟司はちょっと違うかもしれない。見てて飽きない、サインをねだりたい、握手をして欲しい、そんな人は誰だろうか。筒井康隆にサインして貰ったからなあ、いまのところいないような気が。カート・ヴォネガットぐらいかな生存中な人は。
本を通じて接する作者と読者の関係と日常生活で多々ある交友関係とどちらか結びつきが強いのだろうか。ときどきメーリングリストで流れる言葉に強烈な共感を得たりするのはテキストに対する過剰な空想が際限なく想像力(あるいは妄想力)の続く限り広がってしまって多幸症ぎみになったり極端な嫌悪感を感じたりするためなのだが、最近は再びそんな気持ちに陥り易くなっている。
テレビの朝のニュースを眺めているとさまざまな殺人事件や芸能ニュースや噴火や災害や爆発が起こっては通り過ぎて行く。ひとところに落ち着くことを恐れるように最新情報を読み下しては遠ざけてしまっている筒のような空虚さを感じてくる。
かといって無駄に――とは云わないだろうが――深い悲しみを感じさせるような文学や癒しだとか真実に直面したときの人間だとか、なんらかのテーマを前面に出した(あるいは前面に出さなければ成り立たない)小説を読むほど私は素直ではない。
単純な、云い方を変えれば、質素&素朴な感受性を現代社会は許さない。という前提が干刈あがたの小説にはあるように思える。
文学的な誇張とは程遠い。「入江の宴」が過去の文学の匂いを残すものの、其処に埋没しているわけではない。人間臭いというか花鳥風月に対する妖怪画というか北斎漫画というか、生きた証、しかも結果としての証ではなくて経過としての足跡が見えてくる。
「ホーム・パーティ」の中で綴られる人間の姿は、過去に何かがあって現在が少し歪んでしまっている――ゆがんでいない人間はいない、あるいは、エリートとしての裁判官ぐらいなものだ、という逆説――人間とくに女性を描く。家族の絆の強さや脆さを描き切るのではなくて、家族の絆の現状を伝える。非常にドキュメンタリーっぽく、かつ、干刈あがた自身の心象を映し出すものである。あるいは彼女の抱く〈希望〉というものかもしれない。
と、時にはセンチメンタルになりたくもあり、かつセンチメンタルにならないために干刈あがたに接するのもよろしいか、と。
update: 2000/08/19
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