書評日記 第581冊
百日紅 杉浦日向子
ちくま文庫 ISBN4-480-03208-8
長野旅行中には食べ物と見物ものをWorkPadにメモしていった。後から紀行文なぞ催そうと悋気な考えで書き残したのだが、いざ書き始めようかとノートブックに向かうと一行目の後が続かない。「呑々草子」を真似してポワール改め何何と書こうかと思ったのだが難しい。いや、糞詰まりの状態になる。煮詰まっている。杉浦日向子と自分の文章力の差は大きい。それは十分承知している。承知していないかもしれないが一目瞭然である。となれば、ちょっとした駄文までには仕上げることはできないかと考える。職業文士ではないので何か面白い趣向が欲しい。かといって練習も兼ねているから地に付いた文章を書きたい。……なぞと大層なことを考えているのだが、結局のところWorkPadに書き残した程度では食い道楽温泉旅行――それなりに喰わされて帰ってきたので――の桝目を埋めることはできないことに気がついたのだ。取材旅行って大変だなぁ、ということ。
でも、書く予定。必ず。忘れないうちに。
小布施で北斎館に行って来た。小布施には葛飾北斎に入れ込んだ高井鴻山という豪商が居て北斎のために建てた部屋も観てきた。北斎の娘・お栄の絵も観てきた。
女ながら(当時としては「だてらに」が正しいか?)に絵を描くというところは、河鍋暁斎の娘・暁翠に通じる。また、現代の浮世絵師としての杉浦日向子にも通じるだろう。杉浦日向子は自分の姿をお栄に映しているのかもしれない。
借りたばかりなので、上巻の半分までしか読んでいないが、絵柄としての漫画、流れを意識した絵柄、留めの部分と語りの部分とが一緒のストーリーの中に程よく混じる。いわゆる、構図が頭に浮かび、そのまま線をなぞるように描いて出来ていく絵。と同時に筆の運び(この場合はGペンなのか)に任せるとああこうなるだろうなという着陸地点。そんな自然さを感じる。
絵の雰囲気だけをみれば近藤ようこと似ていなくもないが、近藤ようこの絵には粘着性のある女臭さが見えるが、杉浦日向子の絵にはそれはない。軽さとそれに見合う〈らしさ〉がある。江戸の粋かもしれない。それぞれ他とは独立した領域に自分の描き切る道具と場所を見極めている。
そのままの科白があった。
国直の科白『――龍はコツがありやす。筆先でかき回しちゃあ弱る。頭で練っても萎えちまう。コウただ持って……ただ降りて来るのを待つんでさあ。来たてえとこで一気に筆を押さえこんじまう。他の生き物たあ違うんでね、とらまえ方がちがいやす』
至言である。確かに北斎館で見た龍に通じる。
そういう風に書きたい。
update: 2000/08/21
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