書評日記 第602冊
小説家を見つけたら ジェームス・W・エリソン
ソニー・マガジン文庫 ISBN4-7897-1675-9

 黒人の少年が部屋に閉じ篭った小説家に出会う。少年は小説家にサポートされながら彼の才能を開花させていく。黒人だからという不明確な理由で彼は彼自身の文才を疑われる。人に触れようしなかった小説家は少年との友情のために学校へと出向く。
 
 黒人の少年が小説を書く才能を持つという前提は未だ黒人の認められた作家が数少ない――「数少ない」とは書いたのだが、私は誰一人として知らない筈……日本人か英語で書かれたものか南米文学かという違いしかみないから――からだと思う。ヘミングウェイやフィッツジェラルドやサリンジャーやブコウスキーなどのアメリカの作家を眺めたとき色の黒白はさほど関係ないと思いつつも決して底辺ではない(ブコウスキーは違うかもしれないが)階層の出がほとんどなのだろう。勿論、文盲の人も「女盗賊プーラン」を書くことができるし身体障害者であっても漫才や文章を書くこともできるし、素性・生い立ち・経緯は問われないのが小説という作品だ。だから所謂東大文学部であったとしても書けない場合もあれば書ける場合もある。
 「小説家をみつけたら」の世界では、小説家という他の職業から見ればスター的要素を持った人種は〈才能〉というその他の人とは全く違った次元の世界を持つと一般的に考えられている。しかし、〈才能〉は〈才能〉によって発見されるところが十二分にある。同時に小説家の持つ〈才能〉は一般的な幸福(この場合はバスケット)を諦めなければならない。不幸との引き換えに自らの文章への才能を一般が認めるところの権威に認められる。学校という縛りの空間は逸脱しようとする意思が集まるところであるが実際に逸脱するわけではない。クレアというジャマールの庇護かつ恋人かつ一番近い他人の目。ジャマールの母親は息子のことを強く考え、父親はいず、小説家であるフォレスターにジャマールは父性の厳しさを求める。同時に導き手であり物判りの良い(と私には思える)先達である。
 だが、ざっと見ればアメリカンな典型的なホームを思わせる保守性が「小説家を見つけたら」にはある。登場人物の配置は破滅的ではなく内側に目を向けた人物ばかりと云える。黒人であるジャマールを受け入れるか否かは周りの白人達にある。ブロンクス出身の貧しい少年を真摯に引き上げているようにも見えるが、彼を受け入れる寛大さを免罪符にしているようにも思える。とある権威に認められることで終点を得るところはアメリカの持つ権力をアメリカ出身者に委譲する最近の法律をも思わせる。
 勿論、以上のことは読み込み過ぎで、一度有名になるがその後に作品を書くことのない世捨て人の生活をしている小説家の姿は、マルケス「幸福な無名時代」を思い出させるし、老人と少年の友情は「ニューシネマパラダイス」風だと云っても良い。文体は「日の名残り」に近いし、父親のいない少年が厳しい父親像を求める姿は「E・T」に同じかもしれない。
 ただ、思うに最近出版される日本の小説と単純比較すれば随分と地に足の付いたストーリーである。その地味さあるいは地道さが日本人である私にとって「保守的」とも見えなくもない。これは時折思う村上春樹の小説に浮き足立つものを感じてしまうからなのか。アメリカの持つ法則と日本の法則のどちらも私が忌み嫌うためなのか。

update: 2001/03/08
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