書評日記 第636冊
まともな人 養老孟司
中央公論新社 ISBN4-12-101719-6
ここ最近、日経新聞では六本木ヒルズの回転ドアで圧死した子供の記事が続いている。感知センサーの位置を修正したり、危険な位置にポールを立てたり、親が子供に目を離すから、などと色々なことが書き立てられていたりするのだが、結局のところ、子供にとって危ない環境が用意されているのだから、その結果として事故が起こっても仕方がないのだ・・・というのが、「まともな人」の言い分である。
・・・ここで切ってしまうと、相当誤解がありそうなので、ムッとした人は「まともな人」を立ち読みするか──買ってもいいけど──この先をちょっと考えて欲しい。
都心ににょきにょきと高層マンションが建つ。子供の遊び場が地上になくなる。高層マンションに住む家族がいる。だから、子供は高層マンションの屋上やベランダで遊びはじめる。ベランダは「ある程度」の安全策が施してある。景観を気にして「ある程度」で留めてある。そこのベランダや屋上の柵の隙間から、子供が落ちた、さて、誰が悪いのだろうか?
目を離してしまった親が悪いのか、落ちしまった子供が悪いのか、設計で子供がくぐれるような柵を作ってしまった建築業者がわるいのか、それとも、景観を気にして「ある程度」の安全策に留めてしまった人たちなのか?
『まともな人』の言い分によれば、「ある程度」の安全策で留めておいたのだから、「ある程度」の事故があっても仕方がないだろう、ということになる。その「ある程度」というのは、完璧に安全を求めるのなら、景観を気にせずに、絶対に子供が乗り越えられないような高い無粋な塀を建ててしまうか、大人も子供も一切の人がベランダに出れないようにしてしまうか、もし人が落ちても大丈夫なようにベランダの下には安全ネットを引いてまわるか。これが、「ある程度」に留めない安全策であろう。
逆に言えば、「ある程度」で留めてしまっているのは、安全ネットをつけるとコストが掛かったり、美観を損ねたり、大人もベランダに出れないと入居者が不便だったり、そういうコストとか美観とか、安全とは別のところを計りに掛けて、「ある程度」の安全策で留めているのだから、思わぬ結果、というよりも当然なるべくしてなった一定の確率でおこる事故、ということになる。
経済面を考えて安全性を犠牲にしているわけだ。しかも子供の安全性を犠牲にしている。だから、子供の事故が起こる。当然の結果に他ならない。
『バカの壁』も流行っているようなんだが、このバカの壁っていうのも、自分の中にある何かをバカにする心、ひねちゃった心を指すもので、「わたしが何かできないのは、まわりがバカばっかりのせいなんだ!」という意味では決してありません。そう思いたいときも多々あるけれど、そう思ってしまうのも「バカの壁」かもしれない、という内省の話です。
ここ養老孟司の本がたくさん出版されていて、ひょっとして寿命が尽きているのでは!?、とサトウサンペイのことを思い出したりしていたのだけど、東大を辞めたから自由に虫取りとモノ書きに専念できることになった、ということですよね、おそらく。
update: 2004/03/30
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