書評日記 第635冊
女学生の友 柳美里
文春文庫 ISBN4-16-762104-5

 ある朝降り立ったのは新花巻の駅で、やけに立派な新幹線の駅に対してローカル線の花巻駅の小さいこと小さいこと。とはいえ、新幹線停車に纏わる碑もありぃの、宮澤賢治記念館がありぃのと、ちょっと足を伸ばせば遠野にも近いぃのと、というわけゴールデンウィークは彼の地を巡礼して来ました。
 宮澤賢治のほうが主目的だったため遠野の語り部のおばあさんに「なにを目当てに遠野に来たの?」と聞かれたところで、もごもごと口篭もるわけですが、川本喜八郎監督『注文の多い料理店』や、レストランらしくない山猫軒や、なんかお母さんと一緒がやって来てしまった広場を歩いていけば、やっぱり宮澤賢治直筆の原稿を眺めている時が一番印象的でありました。
 記念碑を探して道無き道をレンタサイクルで走っていると、なぜか風吹く中で弁当の蓋を押さえながら食べている3人のオジサンに記念写真を撮ってもらい、なぜか隣の記念館でこごみをご馳走になったりと、夕方には駅前の喫茶店でお茶。
 
 そんな中で読んでいたのが『女学生の友』なのですが、のどかな陽光の中で読むには重たすぎる…というか、渋谷で読むよりは花巻で読んでいるほうが自分自身へのダメージは少なそう。
 同時に田口ランディの『モザイク』を読んでいた感触では、柳美里の得意とする(?)演劇的な効果が発揮されている小説でした。まあ、「演劇的効果」と言えば聞こえはいいのですが、実際には小説に為り切らないまま小説化してしまった戯曲という言い方もあります。勿論、「小説」という枠組み自体があやふやな訳ですから『女学生の友』が小説であるか無いか、小説という枠組みに則っているかどうかというのは意味のないハナシで、筋を追っていけば、退職老人と女学生の組み合わせ、小学生の集団レイプ(とあるいは逆レイプ)といった、いかにも都会的で好戦的な微弱に社会的で現代風にアレンジされた演劇、という気がしないでもない。尤も、村上龍のように援助交際に一体化(対象化しないという意味で)しているわけではないので、読後に登場人物(あるいは小説の元になったであろう社会現象)に対して同化や反発を覚えることもないのだが、社会派小説のように現実に比較して打ちひしがれる必要も無いともいえる。
 えぇと、あの一文字タイトルのエッセー集を読んでいないからだと思うのですが、柳美里の小説って彼女自身の実感情から遠いのか近いのか、改めて考えてみるとよく分からないのです。直截的な社会風刺ではなくまた社会風刺を元にしたミステリーでもなく、そういう分野の無い置き場所のないところに今でも柳美里は居るのかな、と。

update: 2003/05/07
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