書評日記 第72冊
カオスの素顔 ニーナ=ホール
講談社

 カオスというのは、日本語で云えば「混沌」そして「よどみ」。乱流を発生させたり、シダの葉を生成させるしくみは、カオスからうまれる。オートマトンが単純なしくみにより、あたかも知識あるもののように動く理由は、カオスにある。そして、ライフゲームが、あたかも生命をもつもののように動く理由は、カオスにある。そんな、詩的な美しさ、そして、秩序の中から生まれてくる無秩序がこの世界を司っていると思えば、なにか世界が愛おしくなってこないだろうか。

 んー、俺には「詩」は似合わないな。自重・自嘲・うははははは。

 本日の一冊は、ニーナ=ホール編「カオスの素顔」(ブルーバックス)です。俺がパソコンを買ったのは、大学2年だから、パソコン歴は8年になったと思う。ま、例に漏れず(でもないかな)、最初の一年はゲームしかやってなかった。最初から、プログラムを組もうという人は、今となっては、プログラムを組んでなんかやろうという人は、職業プログラマぐらいしかいないんじゃないだろうか。当時は、C言語が全盛になりかかる頃であった。今でも、なんだかんだ云いながら、C言語でプログラムを組んでいるのは、最初に覚えたものが、なんとやら、なんだろうか。
 それはいいとして、やはり当時流行っていたものに、「フラクタル」があった。(今、思い出したけど超ひも論というのがあったな。大統一理論はどうなったんだろうか。)フラクタルの面白さは、端的に云えば「単純な計算式が産み出す、美しい世界」である。なんで、数学のような無機的なものに『美しい』という叙情的なものが入り込むのか。それは、まさしく人を魅了する世界がそこに生まれてくることにある。で、何故、人を魅了するのか。それは、人を魅了するものが「そこ」にあるから。・・・あとくり返しね。俺にとって「イデア」というものは、まだまだ信じるものなんだけどなあ。なぞと、感傷的な言葉を呟いてみてもしょうがないのだけれど。

 ま、それはいいとして、俺らの世代のプログラマ乃至プログラムというものを楽しんだ人は、必ず「フラクタル」の美しさを体験したに違いないし。その『美しさ』をパソコンのモニタに映し出し、文字どおりパーソナルな世界を構築し、その感情を共有したいと感じていたに違いないと思うのだが。むう、もはや、インターネットという分野もどろどろぐっちょんの反吐まみれの場所になりつつあるんだろうか。(解ってて云う俺。ぐう。)

 ぐつぐつ煮立つ糞壷の中で、「ああいい湯だな」なぞと、顔を洗ったり、歯を磨いたり。尻に親指入れてぐっと引き裂いて腕を突っ込んで、胃壁を犯しながら、口に出してしまいたいなぞと思う俺は、一体なんなのだろうか。

 う、やめとこ。自分で気持ち悪くなっちまった。
 げろげろ、こっちの方がもっと気持ち悪い。でも好きなのよ。

update: 1996/08/12
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