大江健三郎の「人生の親戚」(新潮文庫)は、大江健三郎初心者にとっては、入門書といえると思います。これは
以前に書きました。
筒井康隆の「笑犬樓よりの展望」を紐解けば、大江健三郎は、どろどろした文壇の中で「孤高」を極めることにより、その文学性を保持した人、とある。確かに、大江健三郎の孤独癖は、病理的なものを思わせる。同じく新潮文庫の「小説のたくらみ、知の楽しみ」は、小説の書き方と称されるにしては、あまりにも堅すぎて、それは読者を排他するほどである。
そんな、「文学」的な著作の中で、唯一とも呼べるほどテーマが解りやすく、その背景が理解しやすいのは、この「人生の親戚」だと思う。簡単にあらすじを話せば、南米に住み肉体的な障害を持つ長男と精神的な障害を持つ次男の母親にあたるまり恵さんの物語である。のっけから、この兄弟は自殺する。肉体的な障害を持つ長男は、その明晰な頭脳であるにも係わらず、身体的障害のための車椅子の生活から離れられない。それをはかなみ、車椅子で、崖から落ちる。それを見ていた次男は、弱い頭でもって共感を覚えたか、後を追う。まり恵さんは、南米をさまよう。強姦に会う。宗教的に祭り上げられる。そして強姦。殺される。
物語りはそんな彼女を取材する3人の取材陣が見たものであったはずだ。
「まり恵」という名から、マグダラのマリアを想像するのは難しくない。南米のじりじりとした暑さから、狂った男達を想像するのは難しくない。息子2人の自殺という、ショッキングな事件を抱えたまま、誰にも語れずにさまよう姿を想像するのは難しくない。そして、原罪として自らを落としめて、流れに身をまかせつつある姿を想像するのは難しくない。
なにゆえに、自愛することなく、世を去ろうとするのか。
なにゆえに、自らの考えで、世を去ろうとするのか。
なにゆえに、何も語らずに、世を去ろうとするのか。
ひとは、ひとに過ぎず、神ではない。
ひとは、ひとに過ぎず、絶対ではない。
ひとは、ひとに過ぎず、弱いものである。
大江健三郎は、文壇の孤独の中で、なにを思ったのだろうか。何故に、長い間、このような排他的な文学を書いてきたのだろうか。そんな事を時々、考える。
でも、ひょっとしてと思うのは、彼は単なる光という精神薄弱の息子を持つ親馬鹿なのではないだろうか。単なる人嫌いの文学溺愛の嫌な親父なのではないだろうか。
これは、俺が彼に対する幻想であるので、どちらが正しいとも云えず、どちらが間違っているとも云えない。それも俺の妄想にすぎない。
ただ、思うのは、何かをしでかしてしまう前に、ひとつ考えて欲しい。自分勝手な妄想を抱いてはいないだろうか。人はそれほど、人を気にかけていないことを知るべきである。
三つ子の魂、百まで、と云う。
幼稚園で、キリスト教を叩き込まれた俺は、そう、思うのである。