書評日記 第79冊
世界のあちこちで「砂漠化の危機」が叫ばれはじめて、幾年たったのだろうか。石油の枯渇が問題にされて、幾年たったのだろうか。オゾンホールが問題にされて、幾年たったのだろうか。人は嫌なことをすぐに忘れようとする。当然だ。それが「ひと」の防御作用であるから、無理からぬことなのである。
だが、たまに、無理矢理にでも思い出そうとすることは、必要だと思う。問題は山積みしているハズだ。その場で、片付けられるものではない。だから、ゆっくり考える。時々、思い出してみる。結論は急がない。
俺は、「原子力学科卒」だから、原子力関係には詳しいつもり。これは、一生ひきずるつもりである。何故、原子力学科なのかは、どうあれ、関係ないとは思っていない。
たまたま見た「神様の息吹」は、俺の好きなライアル=ワトソンの司会であった。彼は博物学者だったわけだ。どうりで好きなはずだ。
俺の書評日記は、俺の本棚そのものである。乱雑に積まれた本達のラインナップは、まさしくトンでいる。(ま、俺としてはそれほど「トン」でもないとも思わないのであるが)
そんな濫読の結果の中で、俺でさえ、ちょっと異様と思う本がある。新田次郎の著作本がそれだ。彼の著作は、非常に具体的である。なにかと抽象概念に走る俺にとって、一番遠い作品&作家なのかもしれない。彼の作品を手にとるのは、俺があまりモノを考えたくない時である。
スキャナした「アラスカ物語」(新潮文庫)は、今日買ったばかりなので、まだ半分も読んでいない。幾冊か読んだはずなのだが、上記の理由からどれがそうだったのか、よくわからない。ただ、処女作である「強力伝・孤島」(新潮文庫)だけは、はっきりと覚えている。今日は、これを紹介しよう。
さて、新田次郎の作品では、登山が一つのテーマに成っている。「強力伝」もそんな山男の物語である。あらすじは、まだ測量をしていない山に陸軍の測量隊がアタックする話である。山登りには、地元の案内人が必須である。そのような案内人や食料を中腹のキャンプに運ぶ人達を「強力」と呼ぶ。彼らの荷物は、50キロにもおよぶ。それを背負って黙々と山を登る。彼らに大義名分などはない。ただ、荷物を運ぶにすぎない。雪山に登れば遭難するかもしれない。崖を登れば死ぬかもしれない。そんな、危険をも厭わず、彼らは名誉のためでもなく、信ずるに足る者(この場合は、測量隊の隊長)に着いていく。
よく、戦争ものに年配の曹長が、若手の中尉をたしなめる場面がある。プラトーンを思い出せばよかろう。頭脳ではなく、体験&体力勝負という点では共通のものがあると思う。
俺は、新田次郎の著作から、なにを学ぼうとするのか、と読むたびに考えるのであるが、いつも答えが得られない。そもそも、「考える」ことを拒否したいがために新田次郎を読むのに、新田次郎について「考える」ことが自体が矛盾している。そういう矛盾に身を置きたくなるとき、俺は本屋で新田次郎の本を買う。
余計なことを考えたくないときに、薦める本である。
update: 1996/08/21
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