詩というのは、ちょっと苦手。なぜなら、なんでそんなに感傷的にならなくてはいけないのか、と思うから。云いたいことが在れば、自分の「言葉」を使って、語ればいいじゃないか、と思っていた。少なくとも、この詩集を読むまでは。
今週の日曜日に買った波瀬満子&谷川俊太郎の共著「かっぱ、かっぱらったか?」(太郎次郎社)の扉に書いてある文句『気取った俳優を見ると、機関銃で打ち殺したくなる。』に、共感を覚えた。でも、なんか、へん。なぜって、谷川俊太郎って、詩人なんだぜ。
俺は、「言葉遊び」が好きです。なんか、メール交換してて、改めて気付いたけど。ひらがなで遊ぶ、漢字で遊ぶ、音で遊ぶ、思想で遊ぶ。
谷川俊太郎は、自らの詩を、舞台で、怒鳴り、叫んだそうです。ご一緒に朗読して下さい。声に出すのが恥ずかしいならば、頭の中で。谷川俊太郎の声が、頭の中でこだますると思います。
このへん
このへんどのへん
ひゃくまんべん
たちしょんべんは
あきまへん
このへんどのへん
ミュンヘン
ぺんぺんぐさも
はえまへん
このへんなにへん
へんなへん
てんでよめへん
わからへん
スキャットまで
云いたいことを云うんだ どなりたいことをどなるんだ ペットもサックスも俺の友だち俺の言葉が俺の楽器 ワンコーラスわけてくれ いやツーコーラス いやスリーフォア いくらでもいい 一時間二時間六時間いや一日まるごとくれよ俺に 黙っているのは竜安寺の石庭 叫ぶのは俺だ 俺はのどだ 舌だ 歯だ 唇だ のどちんこだ 声なんだ 俺はミスタジャジージャズー ジャザールの広場でジャゾーに乗ってジャゼッパ歌いながらジャズリングをジャズウジャペッってるジャップのバップジャザイはしないジャザイカの胸毛さ ジャズイはやめてくれ ジャゼージョンのジャジイズはジャザズウのジャジ ジャズってるジャジャンザはジャズトジャザイズのジャジャジャジズムなのさ
名
あれとかあそことか呼ぶのは
べつに婉曲語法とかいう訳ではなくて
本当に名前がないからなのだ
古事記みたな擬古調は物欲しげで
ほとほといやなになってしまったし
数十あるという北米の俗語のたぐいも
この国じゃカントの哲学以上に抽象的だ
方言辞典でひびきのいい言葉を探すのも
都会者にとってはそそかしい話だろう
解剖学の術語に至っては一片の生気すらない
いつの間にか男は愛する女のからだに
うす暗い井戸を掘ってしまった
茹で卵だのコーラの壜だのを投げこんで
それじゃまるではきだめじゃないか
かつてあれには名前があった
かけがえのない名前がたしかにあった
ただひとつだけのその名を呼ぶのが
男たちよそんなにこわかったのか
ただひとつだけのその名を忘れて
男たちよいったい何をいつわっていたのか
千個の名で呼ばれ万個の名で呼ばれ
いまやあれはただひとつの名をみずから拒む
ついにまことの無名の淵に沈もうとする
只
本に値段があるなんて
ピカソの得が何百万だなんて
別れた女に慰謝料出すなんて
特許使用料だなんて
著作権使用料だなんて
詩を書いて稿料もらうなんて
なんてなんて未開な風習だろう!
空気も海も天の川も
愛も思想も歌も詩も
女も子供も友人も
ほんとうに大事なものはみんな
只!
……のはずなのに
谷川俊太郎詩集「これが私の優しさです」(集英社文庫)420円也。
買いなさい。