書評日記 第141冊
ははははは、夜久さん。「売れない作家」というのは「受けいれられない作家」という意味でしょうか。うーむ、妙な奴等に受けいれられても困るしね、そういう意味では、「受け入れ堅い作家」になると思いますし、また、それを望んでいます。ただし、俺、模写が得意なんですよ。あるいは、読者のレベルに合わせて文章を作り出すことも出来ます。現在、「書評日記」と「日記物語」は同じペンネームを使って書いているから、時々ごちゃごちゃになりますけど、違ったペンネームと違った意気込みで書けば全く別人が書いたような作品に仕上げることは可能です。そこは分裂症ぎみの俺の得意とするところでしょうか。
あ、そうそう、CDROMへの態度は、昨日に書いてあるので、それもお読み下さい。恐怖される方が大勢おられることを申し上げておきます。
ホームページでも別個のものを作って別人格という手もありますね。
ほれ、参考文献からは外してしまいましたが、献血日記の方と闘うプログラマの方と同一人物なのは皆さんご存知でしょうか。いや、ばらしているわけではなくて、ここから説明しないとちょっと無理なもので、いわゆる前振りというものでしょうか。
俺は彼を個人的に知っています。最初は、そう、献血日記をパロディしました。いやあ、献血っていう福祉のものを広めるためにやっている方だと思っていたんですよね、まじな話。子供好きも同じみたいだし、そういう意味では、一緒に献血オフミなんてのをやりました。んでまあ、闘うプログラマの方は、いわゆる罵倒ネタね。いろいろTAMAさんを槍玉に上げていますが、彼にとって彼女は何者なのでしょうか。うーむ、白々しい?どーでもいいけど、少なくとも彼の「もの」ではないことをお忘れなく。彼女は彼女でありひとりの人間なのですよ。干渉もほどほどにしておいた方がいいと忠告申し上げましょう。
さて、俺は献血日記の「福祉」の部分に憧れたというか、好きになったわけね。んなものだから、彼の態度がわかるにつれて失望が失望を呼ぶのは致し方がないことなのでしょう。8ミリビデオの制作も見せてもらったし、場合によっちゃあ、協力申しあげようと思ったけど、彼の根性がね、ちょっと、俺は勘違いしていたようです。
そう、彼から直接聞きましたよ。
「俺は福生の福祉な中年としてページを開いているのだから。」
はあ、まあ、いいのですが、部屋が汚いのはなんとかなさったほうがいいですね。誰も呼べませんよ。まあ、部屋ぐらいはいいんですが、根性がねじ曲がっているというか、気弱なのか、なんというか、はあ、どーでもいいけど、ホームページにちろちろ書かれたところで、俺には一向に伝わらなかったことをご承知下さい。そーいえば、そちらから連絡が来た事は一度もありませんね。いや、今、来られても困るわけですが。お互い顔を合わせない方がいいでしょう?ははははは、そちらで勝手に妄想なさって下さいと申し上げておきましょう。
果たして、献血日記は、バックが黒くなり、あなたの福祉への思いやりが偽りであったことを知った今、俺は参考文献から献血日記を外すことを決めました。そして、根性曲がりの闘うプログラマもついでに(?)削ることにしましたよ。あなたならわかりますね、俺に憎まれていることを。ははははは、俺は基本的に人を憎むことができません。だから、俺を憎んで嫌われるようにしむけるわけですよ。そうすると、罪悪感なしに、相手を嫌うことができますからね。そうじゃないと、俺、誰でも好きになっちゃうし、許してしまうような感じなのですよ。それが「奉仕」ってものでしょう。
いやあ、献血日記。一体なにをやりたいのだが皆目見当がつきません。皇太子がどうしたっていうの?それって、単なるあなたの興味にすぎないんじゃないの?福祉だとか子供好きだとかなんとか云っているけど、夜久さんの家で、子供の前でばかすか煙草を吸うのは決して子供のためを考えている姿とは思えませんね。あなたにとって、女性も子供も自分も「もの」でしかないのですよ。
そう、猫が虎になったとき、あなたは脅えて、それまでになるんでしょうね。離婚もそれが原因ではないでしょうか。あなたの態度が、まるで彼女を「もの」扱いしたのではないでしょうか。イエ、俺の想像に過ぎませんし、いろいろ事情があるのでしょう。しかし、30万円程度のみみっちい金に対して催促するのは、度量が狭すぎない?
ははははは、ま、どうでもいいか。
勝手にして下さい。2度と会いたくないことをここに宣言しておきますよ。
さて、本日の一冊はリルケの「神様の話」です。
「フラニーとゾーイー」を買った時に、同時に買いました。確か、フラニーの愛読書がリルケだったはずです。うーむ、こういう同時性に俺は恵まれています。
以前も申しましたが、俺は、洗礼を受けてはいませんが、「キリスト教」、しかも「カソリック」に多くの影響を受けています。実は、ユングを読むと解るのですが、「プロテスタント」は男性主義でありキリストを崇め、「カソリック」は女性主義でありマリアを崇めるわけです。そう、幼少の頃に母親が交通事故で死に掛けたとき祈りを捧げたのはマリア像でした。そういう意味で俺は「カソリック」に近いし、ユングの云うところの「アニマ」を実感する者として、ユングとは非常に近しいものを感じます。
「神様の話」ですが。幼稚園時代にシスターから教わった話に似ています。昼には祈りを捧げ食を得ることを感謝し、神の話を聞くことが園児の毎日でありました。
福祉とか労りとか奉仕とかは、一朝一夕でなるものではありません。また、子供を本当に愛するのならば、子供に対して誠に同等なる立場で接することが必要であることを皆様に申し上げて置きましょう。
そういうわけで、似非福祉のページは参考文献から削除しました。
わざわざ献血の身になれないことをするあなたのことを悲しむのは、あなたの妹ではないのですか?そう申し上げておきましょう。
update: 1996/09/09
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