書評日記 第144冊
ソルジャー・ボーイ 川原由美子

 大学時代、漫画を描いていた。まあ、描いていたというのはちょっと誇張かもしれない。描くためのストーリーをため込んでいたといっていい。
 ストーリー漫画が好きだった。ストーリーこそが漫画の中で己を表現するものだと思っていた。そのために小説をたくさん読んだ。真似したい漫画をたくさん読んだ。色々な人の手法が知りたくて幅広く読んだ。俺の小説の読み込みの広さはその辺から始まっているらしい。
 ただ、そう、もうそろそろ解ると思うのだが・・・。いや、本人が解らないのに他人が解るものだろうか。でも本人は意外と盲目になってしまうのものだから解らないかもしれない。

 俺の本質とは何だろうか。その答えに「シンプルである。」と返してくれた人ががいる。

 考えてみれば、俺の行動の発端はきわめて単純だ。単純なのではあるが、世に云う単純なものこそ掴みどころが無く、いろいろなものを揃えて外堀を埋めていく方法しか残されていない。
 これは、そう、また別の人に云ったことがある。指をぐるぐる回す。その中央とは何か・・・それが「本質」なのである。あ、そう、曼荼羅の話もあった。「本質」とは中空である。

 大学時代に目指していたのは恋愛漫画だった。
 当時の友人に云ったことがある。
 「ラブコメこそが、漫画の面白いところであり、俺の描きたいものだ。」と。
 彼は納得しなかったが、安部公房も同じことを言っている。
 すべての小説は恋愛小説の変形であると。

 さてと、ノートに書いたものを改めて書き写すのはあまり面白い作業ではない。読んでいる人はどう思うのだろうか。まあ、こうやってキーボードを使ってディスクトップのパソコン相手に書いている時と、喫茶店でノートに向かってボールペンで書いている時と、調子が違うのは当たり前なのかもしれない。・・・ん、当たり前なのか?
 スピードが違うからそうなのだろう。あとは、やっぱり、文房具によっていろいろスタイルが変わるし、その時の気分もあるし、喫茶店で書いた時の曲だとか雰囲気に左右されることが多い。ま、家の場合は、両親がいたりTVの音が騒がしかったりと、いろいろな雑音があるなかで書いているし、その文体も変わってきて当然なのかもしれない。

 本日の一冊は川原由美子「ソルジャーボーイ」を紹介しよう。困ったときの川原由美子頼み。うーむ。これで何回目であろうか。なんか筒井康隆よりも多くないか・・・ま、いいか。面白い漫画家であることは確か。
 本人も言っているが、川原由美子はいわゆる感情が昇ったり降りたりと起伏の激しいひとである。よくまあ、漫画家を続けていられたと思うが・・・。「ソルジャーボーイ」は、性別を偽って歌手になる女の子の話である。とあるプロデューサーに見つけられてトップアイドル(?)の地位を目指す。途中、記憶喪失になるなどいろいろあって、最後は女性として再デビュー・・・という話だったと思うが、最後の部分はちょっと記憶があやしい。むう、書評日記にあらざるべき言葉だな。
 どうやら「ソルジャー・ボーイ」は川原由美子の鬱状態の時書き始められて、躁状態の時に終わっている。まことにちぐはぐだ。ちなみに「前略ミルクハウス」は素躁状態で始まって、鬱状態で終わっている。妙に真剣な感じで終わるのはそのためでもある。

 で、まあ、何が言いたいのか自分でも良く分からなくなってきたが、こういう軽い躁鬱性(重症の場合は、死にたくなるらしいが。)はそれなりに制御して使うと作家としては便利なことがある。俺の場合、雰囲気とか道具に作風が左右される。いわゆる儀式が必要なタイプである。だから、まあ、ノートに鉛筆というパターンと、こうやってパソコンでキーボードというパターンでは全然違った雰囲気で書ける。
 長編を書く時に問題なのは、いかにしてそういう雰囲気を一つの小説の中に維持していくかが問題になる。
 まあ、誰もが物書きになりたいわけでもないのだろうが、いわゆる「気分屋」といわれる方は、それを自覚して儀式などを使って、それぞれの場面に対して意識盛り上げていくのも大切かと思う次第。

 分裂タイプはね、なかなか大変なんですよ。ただ、まあ、いろいろな文章がかけて便利という利点もある。ただ、落ち込む時はひどいのでこれをいかに短時間ですますかが問題であるが・・・。

update: 1996/09/09
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