書評日記 第379冊
理解とふれあいの心理学 根木和雄、小島康次
ミネルヴァ書房

 心理学をなぜ学ぶのかと問われれば、何かを理解する手助けになる、と答えると思う。自分が何をやっているのかわからなくなった時や、先のことが見えなくなった時、不安に沈んでしまった時に、また、将来を考え始めた時、現在の既知の知識をどう利用するのかの「方法論」を与えてくれる。また、心理学とはそういう学問だと思う。
 社会不適合者としての「病理」に対する治療や理解が本来だともいえる。社会学的立場から眺めれば、流動しつつある個の集まりが何処へ行くのか、を見定める手段になる。また、かつての「フロイト心理学」のように性を表に出してしまってそのインパクトを利用することも出来る。実際、ついこの間までのフロイト心理学ブームは性に関する抑制を解き放つと同時に危険なものをそのままに提示してしまう、社会としてのヒステリーと思われる。もっとも、「流行」とは集団幻想とヒステリーの産物であるので、悪く批判することは必要ないのだが。
 
 そういうところで、研究・分析として心理学を学ぶという立場もある。だが、さして研究者といしての業績が自分の現実と直結しない場所に居るならば(=一般人)、タイトルにあるように人を「理解」するために心理学に触れておくのも悪くはない、というところだと思う。
 
 病理としてではなく、これからの発展・将来への展望としての心理学へのアプローチはマズローやシュタイナーが第一に挙げられるような気がする。マズローは自己実現のアプローチが会社という組織の中でも体現させられることを示し、シュタイナーは幼児教育を通して豊かな感受性を育てることで豊かな人生を送ることを目的としている。
 また、フロイトは性を解体することで隠れている性への幻想を打ち砕き、客観視としての心理を描く。ユングは人々は太古の集団無意識を共有するという。これは遺伝子的生物学的に正しい。
 
 現代社会は人が有り余るほどいる。どのように人生を過ごすのか、なぞと考えなくても過ごせるぐらいには日本の社会は豊かである。
 だが、人が人に接する時に行われる自己欺瞞や期待としてのヴェールを振り払ってしまい、現実に其処に人がいることを認識し始めようとした時、自分の認知しているものが危うくなってしまう時がある。
 そういう「感受性」を持っているならば、理論としての心理学を知っておくのも悪くはない、いや、助けになるということだろうか。
 
 「癒し」という言葉が流行し始めて、誰もが「癒し」を求めているのかいないのか、混沌となってしまったわけだが、そういう自己が自己であるところのもの、また、他己を社会に融合させ、逆に、自己主張をこなす、というジレンマや社会への折り合いをうまくつけようとするならば、学び、自分や他人を理解しようと努めることは、無意味な不安を持たないひとつの方法だと思う。

update: 1997/12/15
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