書評日記 第380冊
恋愛幻想論 青木透
芸文社

 いわゆる「純愛ブーム」の時の本。恋愛が対象化されて、自分なりの体験なり理想なりを誰もが語り始めた頃だと思う。
 純愛・不倫・性愛、というように「恋愛」にはそれぞれがそれぞれの理想を持つ。これが社会学的に見れば「幻想」ということになるが、心理学的に見れば「実現すべき目標」となる。言わば、『自分をどういうふうにすれば楽しませることができるのか』という隠れたエゴイスティックなのだが、環境・相手・状況・将来を考えた時、「今、この瞬間」という渡辺淳一的な不倫(?)の追求よりも、青木透の方が随分素直な視点を持っていると思う。
 
 実のところは、大江健三郎の小説がすべて障害児の息子・大江光に対する個人的な体験な領域を出ないように、恋愛というものも個人的な体験の域を出ない。だから、「恋愛論」という形でおおざっぱに社会学的な視点で以ってそれぞれの例を切り取ったとしてもそれはあくまでサンプルでしかない。むろん、個々の実状であるからこそ現実に対処しなければならない「恋愛」の姿が其処にあるのだが、ゴシップの領域を脱しないのであれば、さほど学問的な切り取り方を見せたところでおもしろいものでも役に立つものにもならない。
 が、この『幻想恋愛論』は随分と意識的な切り取り方をしていると思う。バルトの『恋愛のディスクール・断章』を持ち出してくるのも、私には好感が持てる。どちらかといえば、客観的な視点から分析してしまうのだけれども、まさしく「恋は盲目」になって語ってしまう嘘っぱちよりは随分と真っ正面から取り組んでいるような気がする。
 
 男性が弱くなり、女性が強くなる。
 実のところは、男性社会の中にあるゲタが外されていっているに過ぎない。当たり前のことかもしれない。だから、人間が様々であるように、男性も様々であり、女性も様々である。上野千鶴子がおまんこが様々であることにびっくりしたように、高橋鐡が『性器は顔よりも様々な顔を持つ』というように、なにもかもが様々であるに過ぎない。
 これを、排他的な個人主義を取ってしまい、内輪としてのマニアックな孤立化を歩むことになるのか、それとも、分別として折り合うべきところは折り合い、認め合うところは認め合う、意見し合うというところは意見し合うという形で、一線を引いた上での関わり合いを求めるのか、それすら様々な主義主張があるだろうし、それぞれの環境に置かれた利害というものを認めなければ人は生きていけない。
 すなわち、『愛は包括的なものであるけれども、恋愛はエゴイスティックである』ということ。

 『恋愛とは、文学によって創作されたものである』という考え方は正しいと思う。だから、かつての日本が求めていたプラトニック・ラブであろうとも(無論、日本社会が持つ大きな現実もあるのだが)、山田詠美の云うメイクラブであろうとも、実のところは、文学なりTVなり映画なりで教え込まれた幻想に過ぎない。だが、自分はこうありたいという願望を直接表わしているものである。となれば、あれこれ云うのは無粋……なのだが、そのあたりは個人の事情であるがゆえに、ひとつの「定型」を知るのも必須ではないか、ということだろう。
 
 つまりは、私の「定型」が青木透の「定型」とさほど遠い位置にないということだと思う。ある意味では世間からズレてしまってきている「恋愛」というものへの純粋な憧憬、というものだろうか。

update: 1997/12/15
copyleft by marenijr