書評日記 第381冊
白木さんの教えに従って「目を節穴にして読む」本を購入する。
以前、一番最初にエリアルを読み始めた頃は、漫画も小説もこういう風なものしか受け入れられないような時期があった…という幻想を私は持っていた。今から考えれば余りにも狭い考え方だった訳だが、そのようにしか世界を見渡せなかったといえばそういう「若さゆえの馬鹿さ加減」であったのだと思う。実際のところはどうであったのか良く解からない。SF漫画が描きたかったが、読む小説は谷甲州やフィリップ・K・ディックやアイザック・アシモフであった。自分の画力や考察力とは程遠いものに憧れて、そして、自分で潰れてしまった時代が大学の頃である。
と、今、心理学の本を読んだり、改めて純文学に触れてみたり、司馬遼太郎を読み返したり、大江健三郎や安部公房の小説を客観視したりしている自分を想うと、「なんて進歩したんだろうか」と思う。少なくとも、あの頃のような馬鹿さ加減は今の私にはなく、そして、自分の見るものを客観的に主観的に分析できるだけの視点を得ることができたと思う。
さて、そのような堅いことは兎も角、いわゆる「女の子が巨大ロボットを動かすSFどたばた小説」というものは、高橋留美子「うる星やつら」から延々と培われている系譜だと思う。能天気に楽しめればそれでいい、というところだろう。
実際、読めば、能天気に楽しむ。逆に云えばあまり頭を使わない読み方を堪能したい。
実はそういう意味で、11巻めは「原爆」を中心に据えている分だけおもしろさが無い。作者・笹本裕一にすれば、自分が触れてきた原爆に対する考え方というものを据えてみた、というところなのだろうが、それとこれとは別物で考えて欲しかった、というところだろう。つまりは、大江健三郎著『ヒロシマ・ノート』が私にとって余りにも幼すぎる考察であったと同様に、『エリアル11巻』は考察が幼すぎる。
いや、考察をすれば良い、真剣に考えれば良いというわけではない。ただ、「原爆」を対象にしたときに見えてくる、作者・笹本裕一の人間性の深み・豊かさというものが見えてきて、厳しい言い方をすれば「貧相な思考」と感じられるところが多々ある。
で、12巻はいつも通りの無邪気などたばたが繰り返される。
多分、11巻で終わってしまうような「原爆」への捉え方に対して敏感すぎるのだと思う。だが、笹本裕一のあとがきを読んだり、本編を読んだりして、「ああ、笹本裕一も原爆を考えて、平和に貢献しようとしている人なんだなあ。偉いなあ」というような感想を私は持てない。むしろ、無理解というもの、思考の浅さによる弊害を助長しているような気がする。これは、「わかっている」という科白を吐かれたところで、決して解かって貰っている安心感を得られないと同等だと思う。
これは、「戦争を知らない子供達」から「戦争を理解しようとしない子供達」への移行を示すと思う。
こういう意味では谷甲州のアプローチの仕方の方が幾分信用がおけるような気がする。
戦車や戦闘機や軍艦を見て調べているからこそ解かる、武器の強さと使い方、そして、危うい平和という現実だろうか。
……と悲観的・現実的になっても困るのだが。兎も角も、11巻はあまり誉められた作りではないのは確かなことだと私は思う。
update: 1997/12/15
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