書評日記 第435冊
優しいサヨクのための嬉遊曲 島田雅彦
福武文庫 ISBNISBN4-8288-2170-8

 青春群像を描いた島田雅彦のデビュー作である。
 青春群像といえば、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』だと思う。原田宗典の『十九、二十』でも良い。
 人はどれほどの多様な青春時代を過ごしているのか、過ごして来たのか、または、過ごそうとしているのか、私にははっきりしたことは言えない。「青春」という言葉に込められるのは画一化された想い出としての青春の姿であって、実際に生きてきた自分の過去そのままを現しているわけではない。また、他の人の青春を完全に共有しているわけではない。すべては、過去のものになった時にあらためて振り返り、その熱情の部分にささやかな感動を覚えることが「青春」という言葉に潜むだけに過ぎない。
 だから、誰がどのように過ごそうとも、また、決して若いとは言えない歳であったとしても、とある熱情に動かされて自分の能力限界までを生活の中につぎ込んでいた時間そのものが、ほんとうの意味での「青春」を意味するに違いない。
 
 セックス産業が氾濫しているように見え、すべての人がセックスを求めて動いているように見え、大人たちはその押し隠された平面的な顔の裏にはセックスだけを求める仮面が裏打ちされているように見え、そういう大人たちとは違ったところに自分がいて、それでもなお、自分だけが求めているものを「自分だけが」という形で求め続ける執拗さが、若い頃にはある。むろん、セックスを片隅に追いやってしまうこともできるし、保健体育の教科書に載っている「昇華」という形でスポーツに還元することも可能であろう。だが、未だセックスが大人の自由の中に潜み、自分とは違ったところにある金持ちが手にする快楽であると思い、反対に金銭的に貧しい自分は精神的に豊かであろうとし、同時に金持ちは金銭的に豊かであればこそ精神的に貧しいものと信じ込み、だが、結局のところは、未だ社会に出ていないだけの未成年であるだけの無軌道な己がいるだけなのだ、ということが若い頃の堂々巡りである。
 どんなに彼我の差に理不尽なことを考えようと、どんなに相手の未来を思い、様々な憶測を以ってしてそれらを現実のものと摩り替えようとしても、時間はそれほど早くは動かず、同時に、何もしないのであれば何もしないままの己が残り、周りの人たちは自分と違って要領よく人生を楽しんでいるような劣等感に襲われる。
 そのあたりの妄想が、大人になると想像力の欠落となって、救われる。金銭的に自由になり、親の庇護から離れ、精神的には追随しつつも、一応の独立を為したところで、人は世間の中の一部であることに気づきはじめる。
 ただ、それぞれの人生はそれぞれでしか考えられない人生であり、時間の流れもそれぞれの人に沿って流れるのだろう、と云う意見を持つようになる。
 
 「青春群像」という言葉で括ってしまうほど、感受性の高い時期に受ける影響は多くのものを残す。だが、島田雅彦は、年を経た後に語るのは、かつての自分を想像力豊かであった、という過去への憧憬をいう。

update: 1998/6/26
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