書評日記 第477冊
日本近代文学の起源 柄谷行人
講談社文芸文庫 ISBN4-06-196018-0
 まずは、目次から。「風景の発見」、「内面の発見」、「告白という制度」、「病という意味」、「児童の発見」、「構成力について」。
 
 現代の作家が書いた小説を同時代的に読みこなす――たとえば、私が宮部みゆきの『火車』を読んだり、恩田陸の『球形の季節』読んだりするように――のであれば、彼我の暗黙知や慣習や誤解の差は少ないのだが、ひと度、日本文学の原点や現在の日本文学を支えているものの源流を見出そうとするならば、現象学的な思惟とかつて当時には無かった思想を排除する注意深さが必要である。これは、過去の遺産である諸小説を価値のあるもの又は価値の無いものと分けたり、先駆的な価値とその潮流を辿ったりするためのものではなく、ひとりの作家がその当時為し得ることの出来た事実を羅列するために必要な作業なのである。
 「風景」は内面を見出したときに初めて外側として発生する隔たりを意味する。「内面」は風景を描くと共に発生した独立した存在としての内側である。「告白」とは内面を意識するあまりに物語から転げ落ちてしまった私のみの出来事である。「病」とは生きていることを許されないことに対する憤慨を表し其の不安の形を為すものである。「児童」とは農村の家から剥ぎ取るべき国家の下僕予備軍である。「構成力」とは物語と神話から離れた小説を評価するための手段である。…極端に言えば、そんなところだろう。
 
 あれこれと過去の作家を再評価するためには基準が必要である。当然、過去の作家を同時代的に評価していた基準は過去の社会を支えていたものであるから、現在のそれとは異なる。だが、現在からの視点で過去の作家または作品を切り裂いてしまうのは余りフェアな方法とは言えない。もちろん、横一列に並べたときにの評価、たとえば『源氏物語』と『吾輩は猫である』と『虚構船団』の関連性は、というようなものを得たいときは必要であろうが、そのようならランダム選択はなんら意味を持たないし、解決にもならない。だから、一定の基準や一定の視点から文学的な要素の数々を溯って検討するには時代から逃れられないのである。
 学問的な研究の上で「起源」を求めていくときに必要な要素と今までの誤った検討方法を正していくのが『日本近代―』の目的である。だから、数ある文学史の検討の中のひとつとして読むべきなのかもしれない。
 だが、私にとっては、思想家・柄谷行人の手法を知ることと、近代日本文学が創って来た潮流を学ぶことと、現在の文学または小説が何を元にしているのかを模索し直すことが目的であった。その結果として、自分の感覚が正しいことを自分に対して覚え込ませることが出来たように思う。とても個人的なことではあるのだが。

update: 1999/02/12
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