ボディウォッチング
デズモンド・モリス
小学館ライブラリー
ISBN4-09-460028-0
最近、自意識過剰気味で文章を書いては消し、消しては書きの繰り返しを行っている。やや失語症気味なのか、言葉がとちっていることが多い。本来ならば内容に強く言及するべきかとも思うのだが、瞬時のフィードバックが恐くてできない。過去に読んで来た小説や理論が頭の中を渦巻いていて、言葉と思考が離反し始めているのが分かる。それでも、何か書き残さずにはいられないのは何故か。
感想だけを書こう。
モリスの『裸のサル』を読んだのは浪人中だったと思う。知識に飢えていた時期だったから、司馬遼太郎の歴史小説を好んで読んでいた。何かの事実を得ることは、あたかも前進したような快感を得て気持ちよかった。それは、浪人時代「結果は一年後にしか現われない」という決して性急にはえられない時期が背景になっていたのは確かなことである。これは当時の日記にも書いてある。
今、『ボディウォッチング』を読むことに私は躊躇いを持つ。ミステリー小説をいくつか読み始めていることと同様に、さして、文学とは関係ない興味本位と思われるような知識をため込むことに、罪悪感さえ覚える。ひとつの小説を書き上げることは、そのバックグラウンドにあるものが無ければいけない、ことを分かっていつつもそう思う。それは、単なる焦燥感、なのかもしれない。
人間の出すいろいろなジェスチャーを文化論的に解析すれば、それぞれの国や地域を中心とした地図を描くだけで済む。モリスも言っていることなのだが、「本来のジェスチャーの意味を知らずに行っている」ことが多い。類人猿の中から進化した時から持っているジェスチャー、何か恐ろしいときに目を逸らしたり足をばたばたさせたり誰かと一個所に固まったりする行動と、文化の芽生えたときにフィードバックされたジェスチャー、指切りだとかエンガチョのような呪術めいたもの、が今の文化では混在している。
だから、こういう観察・読み解きを中心にしたものを読んだときに覚える危惧は、フロイト心理学が「性」に偏って大衆の好奇心をそそったものと同じものを私は持つ。実際、「性のディスプレイ」を解説しているのが本書の半分ある。
ただ、こういう「性」というものに対して昔の私よりも今の私は距離を置いて見ることができるようになっている。世間における無自覚と思われる露骨な性表現に対しても寛容になってきている。これは、また私という人間もそういう仲間のひとりであることを自覚し、スノッブさを超えたところに新たなものを見出そうとする現在の社会性(特に日本社会)を認めようとしているからである。
また、同時に、心理学や利己的遺伝子を知ることによって、自らが発する俗悪な部分がみずからにとって不可欠なものであることを認めざるを得ない立場に追いやられていることを知る。それが、偏った見方であろうと、平均的なものでなかろうと、ひとつひとつの言動に含まれる自分の意図が、他人にとってどうあれ、私にとっては強烈に醜悪であるものと見出してしまうことがある。それは、青春期の極端な潔癖症と同じものがある。
実は、理解することと認めることは別ものなのだ、という偽善が私の中に芽生え育ち、高尚さを保つ小倉千加子や上野千鶴子のフェミニズムと、もっとも動物的な観察を行うモリスの『ボディウォッチング』とが同居し始めるのである。
ミニスカート、パンティストッキング、ハイヒール、という脚の魅了は、あからさまな性のディスプレイであるにも関わらず、また、谷崎潤一郎が受け入れられるほどには世間は寛容であり、柔軟であり、混濁した人々の思惑を飲み込まざるを得ない社会が目の前に現われつつある。良くも悪くも、そういう社会なのである。