書評日記 第530冊
トロッコ かんべむさし
出版芸術社 ISBN4-88293-093-5
何故にかんべむさしの小説を読んだかと云えば、とあるTVドラマの原作が彼であったためだ。古い作品だったとはいえ、ゲイに対する誤解が多いものであった、そうだ。……つまり、私はドラマを見なかった。そして、その原作も読んだことはなかった。原作は図書館で探したが無かった。というわけで、変わりに「トロッコ」を読むことにした。太宰治の「トロッコ」を思い出したことを此処に記しておく。
私の中でかんべむさしと井上ひさしを随分と重なった範囲を占めている。ただ、二人のうちで主に読むのが井上ひさしだから、かんべむさしのほうが従属のようなものである。野田秀樹の小説を始めて読んだ時に思ったのは、このテの饒舌体の小説は意外に多いものだ、ということだった。饒舌というか不条理というか、普通の恋愛小説、普通の純文学小説とは違うところにある、作家が小説を使って何かを掴もうとする何かを実験する何かを知ろうとするための小説、を作る(または作りたがる)人たちも意外と多いものだ、ということだった。
もちろん、この「トロッコ」に含まれる数々の短編は八〇年代に書かれた古い当時の流行を踏襲している。短編のタイトルが、「ループ式」「アプト式」「スイッチバック式」と斜面を登る方式を綴る連作、そして「帝国タイボー組合」「言語破壊官」「サイコロ特攻隊」のように抽象名詞を使ったもの、であるように、日常からかけ離れたところに小説の筋を持って行く。だが、読むと分かるのだが、笙野頼子の小説に比べれば――笙野頼子が後代であることを知った上で比べる――いまひとつ、実験的な小説が実験的なままで放置されている気がする。言わば、熟成未満というところだろうか。(この部分は自分にも当て嵌めておこう)
もう少し、突っ込んでおこう。何故「トロッコ」を読んでいる途中、いまひとつという感情を拭い去れないのか、何故はんぶんまで読んでそのままなのか――「道程」の途中で読むのを止めている――を考えると、どの短編を読んでも同じ匂いしかしないからではないだろうか。これらのパターンに「飽きが来た」と云ってしまえば簡単なのだが、どの短編も何かのSF小説に似ていて通り一遍でしかないと思わせるような捻りしか持っていないのかもしれない。つまり、「トロッコ」を題材にした二人の労務者が出てくる三つの短編は発想は秀逸なのだが、出てきたものがひまひとつ平凡だった、というような感じだろう。もっと、何かを重ね合わせないといけないのかもしれない。何かを加える必要があるのだろう。昔はそれで良かったのかもしれないが。
update: 1999/10/22
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