書評日記 第539冊
妻を帽子とまちがえた男 オリバー・サックス
晶文社 ISBN4-7949-2522-0

 先日、演劇で観た「ザ・マン・フー」の原作である。
 この本を読み始めて第一に思ったことは、演劇が原作に忠実であった、あり過ぎたことである。一字一句を演技に書き移すように表現された演劇は、「演劇としてこなれていなかった」ように思える。
 
 これは、片方でシュタイナーの「神智学の門前にて」やサドの「閨房哲学」を読んでいるためかもしれないが、精神科と神経科と心理学と人生哲学と、そして、文学の望むところとの違いに私は混乱してしまいそうになる。ほんとうは、利己的遺伝子や橋本治や数々の漫画が私の読書生活を支え、ひいては、それをまぜこぜにして私の将来の作品&人生を培っていくのと同じように、「妻を帽子と間違えた男」でオリバー・サックスが描写する欠損と亢進を持った人たちも、いろいろな面を持っているのだろう。だが、どこか一面性でしか成り立たない生活、表層に出てくるもの、また、内面として背骨になっているものは、必ず偏る。いや、偏らざるを得ない。ひょっとすると、人生の終わりにはトータルとしてユングのいうところの統一感のある存在に至るのかもしれないが、その経緯はさまざまな偏見とさまざまな不可能性で溢れているのであろう。だから、ひょっとすると決して幸福でも豊かでもない「神経症障害者」という枠組みを、欠損した神経感覚による日常生活の奇妙さ、側頭葉の乱れたパルスによる癲癇による天国、記憶亢進による天才性、閉塞した世界による自閉と芸術性、に当て嵌め、「病理」という括りと「天才/薄弱」という括りとを平均値から離れている偏在性と社会的で平均的な生活を営めるか否か、に沿わせて推し量ろうとするのは、あまりにも早急な結論のような気がする。
 だから、ひょっとすると、オリバー・サックスの描く神経病理者が奏でる人生論的なヒューマニズムと、人間という生物が持つ物理現象と神経節の絡まり、そして、遺伝子のビートルである人間という存在、また、自己とは、まったくオリバー・サックス個人の出来事に過ぎないのかもしれない。
 だが、私は、オリバー・サックスの「妻を帽子と間違えた男」の数々の障害者(と呼んでいいだろう。ある種の天才性も含めて)の描き方、欠損と亢進という統計的現象、を全面的に支持したいと思う。
 そう、意識的には「モラル・アニマル」と同じ位に同意したい。

update: 1999/11/06
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