クンデラの文章の魅力はその硬さにある。硬直した哲学的用語の羅列ではなく、よく練られた思考から出てくる選別された言葉によるリズムである。『不滅』も
『存在の耐えられない軽さ』と同じように恋愛を中心にして語られる。
『不滅』では、現代を舞台にしたひとりの男性と二人の女性を巡る物語とゲーテを中心に据えた過去の恋愛沙汰によって構成される。二つの時代と二つの時間を同時に流したものに村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』があるが、『世界の終わり――』が決して交わらない二つの物語を二つの物語のまま終わらせる――そういう趣旨なんだろうが――のに対して、『不滅』では二つの恋愛物語は決して交差しないものの、交互に描かれることでどちらかがどちらかに暗示を齎すという読者への効果的な役割を担っている。恋愛物語としては金井美恵子の『文章教室』をふと思い出したのだが、彼女の文章よりもクンデラの方が、小説になじむ形で小難しい哲学が語られ、溶け合う形で「不滅」という主題が十分に統一されていると思う。
が、結局のところ〈恋愛〉を中心にしてしか動かない物足りなさを読中に感じるところもあったのだが、それは無いものねだりのようなもので、つまるところ自らの死の後にも残っているであろう歴史という遺骸、そして、それに込める不滅性を十分に集中的に講義しているような気がする。
そう、「遺伝子のビーグルとしての人間」を正しく描き、それでいて、科学的な奇妙さ奇異さに頼ることなく、ひとを中心にした小説に仕上がっていると思う。
もう少し、内容に触れよう。
『不滅』では作中人物としてクンデラらしき小説家が出てくる。小説内に出てくる数々のニュースはクンデラが『不滅』を書いていた当時に実際に起こった事件をもとにしている。『不滅』にはたくさんの注釈が付いている。これは古典やちょっと昔の小説(大岡昇平の小説にも注釈が要るような時代なのだから)にある今となっては死語となった言葉や過去の重要な出来事の説明ではない。もっと卑近な出来事であり、クンデラという小説家の周り起こった出来事、クンデラ自身が考えていることまた考え続けていることを、これから書こう(伝えていこう)と思っていることを、等身大に書いたものに対する説明である。特にチェコという場所に限定されたゆえの注釈が多い。
これはジェイムス・ジョイスの小説に似ているように思える。ダブリンという地方都市(と思うのだけれど)で起こる出来事を事細かに描くことは、壮大で重厚で人類の歴史に立ち向かおうとする正しい小説への意気込みとは正反対のところにあるように見える。だが、実際のところ、何らかの評価が得られるまたは下される、つまりは、「不滅性」を持つか否かは、時間と共に流れ去ることを強く望まないとは別の根拠に基づくのである。それは、ある意味で普遍性というものかもしれないが、たぶん違うだろう。なぜならば、普遍性を望むこと自体が普遍性・不滅性とは遠く離れているからだ。
結局のところジョイスの小説は不滅性を持ちえた(と思う)のだが、クンデラの『不滅』はかなり微妙なところにある。これは、現代に密接にかかわる出来事の網の中にクンデラ自身が身を投じて小説を組み立てているからだ。これは多くの注釈による同時代性を持つ強い魅力を引き出すのだが、ほんものの不滅性とは序々に離れていく。もちろん、この説自身が『不滅』という小説に描かれているところが、私にはとても面白いのだが。