書評日記 第541冊
閨房哲学 マルキ・ド・サド
河出文庫

 片方でシュタイナーの『神智学の門前にて』を読んでいるのだが、先に『閨房哲学』の方を読み終わった。
 サドといえば『ソドム百二十日』が有名であるが、サディズムを主としてマゾヒズムの側から快楽美を描くスタイル(『悪徳の栄華』など)は、単なる攻撃性を表に出した花村萬月とは全く異なる。
 解説にもあるように『閨房哲学』は哲学という単語を冠している通り、サド特有の甘美なマゾヒズムの描写はほとんど出てこない。ヨーロッパ人の思考を縛るキリスト教教義を敵対として、性快楽の正しさを哲学(風)に説いていく。さながら、高橋鐵の『あぶ・らぶ』 のようである。まったくもってその通り…かもしれない、という納得に陥りそうになる。
 だが、サドがフランス革命前後に牢獄につながれていた事実と、牢獄特有の精神的に閉塞的かつ鬱屈した状況で書かれた小説群であることと、サド自身が持っている性格的な面(キリスト教を正とした時に対する場所にいる人という意味で)とを考え合わせれば、マルキ・ド・サドの描いた創作世界は、肥沃な文学世界イコール創造的価値を広げることにひと役もふた役もかっているものの、それが即ち社会における人間的な価値イコール疎外されないことを前提としたアルファオス的な社会性とは全く別の孤立した状態から出てきたものである、と言える。
 つまり、現代の奔放な若者社会、たとえば渋谷の街を見れば性風俗の乱れ、過激なファッションの演出、固定化された世代のみに通じる価値、極端かつ奇抜なものの流行化、と言われているものが溢れかえる(としておこう)。これらは、基盤としての安定し――最近は決して安定しているとは言えないし、安定した中にある形の無い不安感・絶望としての未来感が、なにかと過激を求めるファッションセンスへと導くのであるが――保守的であった厳格な正キリスト教社会への反発と同じなのかもしれない。もっとも、サド自身は伯爵という地位を持ち、彼の名がサディズムという名詞として名を残しているように彼の素行は当時の一般庶民とはかけ離れた貴族ゆえの放蕩を為していたにはは違いなく、伝統を重んじる保守的な貴族社会からも革命以後の民衆の自治社会からも追い出されてしまう、徹底的な異端者なのだが。だからこそ、何か(社会とか民衆とか弱者とか)の代弁者ではなく、政治的な意図も含めて宗派的な主義主張とは独立した豊かさがサドの作品にはあるような感じが私にはする。とくに、『閨房哲学』は、具体的な描写が少ない分、それらに惑わされることなく、純化されたものとして(ほんとうは具象化されないゆえの鈍化だと思うのだが)サドの求め尽くす思想を味わうことができる。もちろん、想像力という範疇にとどめるべきものとして。

update: 1999/12/01
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