書評日記 第599冊
中世小説集 梅原猛
新潮文庫 ISBN4-10-124410-3

 目次を見れば何処か馴染みなタイトルが並べてある。「首」、「長谷雄の恋」、「おようの尼」、「福富物語」、「物臭太郎」、「蓮」、「熊野の本地」、「山椒太夫」。解説の瀬戸内寂聴によれば、今昔物語に題材を求め、それでいて九割は創作だそうだ。確かに読んでみれば覚えのある物語はちょっと違い、そして使われている言葉も新しい。原典への意訳ではなく意図的な創作であるとはなんと見事な調和を保っているのか、と感心してしまう。
 日本神話の時期から下る中世は人の時期である。現代的な慌しい渇望はなく、ゆっくりとした時間の流れと其れに伴う執着が描かれる。澁澤龍彦が『高丘親王航海記』を書いたように梅原猛の満を持しての作品と思える。電車の中で読み耽り駅を乗り過ごした。誇張ではなく、本物の日本の精神と神話が描かれているような気がする。
 梅原猛は仏教哲学に詳しい、と改めて云うまでもなく有名である。不幸かな私は彼の仏教関係の著作を読んだことがないのだが、瀬戸内寂聴によれば研究論文であって面白い。大江健三郎の言葉ではないが、「面白い面白くないで評価を決めるようでは困る」のであるものの、読み進めるに従ってのめり込む興味の持続性こそが、血となり肉となる原動力となる。となれば、眠くなるよりは面白いほうがよい。勿論、著作と対決しながらの知性的な面白さもある。だが、『中世小説集』は、堅苦しくはないしかし知性に富み根源を決して踏み外すことのなく構築された世界に身を委ねるたのしさを持っている。
 たとえば、川上弘美の『蛇を踏む』は日本の蛇信仰のひとつを寓話化したものであるが、現実的な意味で蛇信仰が現代の若者に浸透しているか忘却されているかに関わらず、日本特有(?)の〈畏れ〉が――最近の若者は〈畏れ〉を知らないと云われているけれど――何か別の形で伝わってくるものではないか、と思われる。ただ、『蛇を踏む』の場合は、蛇という固体に還元されるものが大きいためにいわゆる読者がノるノれないに差が出るのだが、『中世小説集』は誰もがノることのできる昔話風なものに光が当てられている。
 と、更に脱線すれば、吉本隆明の『遠野物語の研究』(だったか?)や小津安二郎にも派生できる。単なる回顧主義とは違う修練の賜物というべきものが集約されている作品である。

update: 2001/02/08
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