書評日記 第600冊
バクの飼い主めざして 庄司薫
中公文庫 ISBN4-12-203726-3

 NHKの世紀を超えてではないが、世紀を超えて書評日記も六百冊になった。毎日書いていれば三年弱で千冊を超えるはずなのだが、五年目にしてやっと六百冊とはやや情けない。とはいえ、空白ではない領域を創り出す私はこの行為を続けることに意義があり…とするのは、ヴェイユかクリシュナムかというところで、自己とか自我とか無心とか自分探しとか居場所とか認められたいとか、あるいは自己欺瞞と自己撞着と競争と日本語と英語と知性と輪廻と社会の縁とモラルと不妊とアレフと大江健三郎と漫画と安部公房と筒井康隆とカート・ヴォネガットと性とディックとプッシーと杉浦日向子と河合隼雄とユングとバルトと小津安二郎とグリーンナウェイとQXエディタとパソコンと補助脳と狂言とギャグとをひっくるめると本棚にあるひとつの納得に至るのではないか。ますむらひろしが描いたテンプラの体に流れていく化石の欠片や葉っぱのひとつや土や雲や水や珊瑚のようにあらゆるものの部分が集まって全体を形作り、全体を一度に語ることは不可能であると高橋源一郎が示した通り一面的な評価は取るに足りない部分かつ欠けてはいけない部分を取り零し、ひとはひとに対して好意と悪意と興味とを持ち、忘れることと逃亡することと諦めを諦めと認め、選択肢と選択することの同一性を感じ取り、ゆくゆくは悔いの残らない、夜中にがばッと起きて「こんなはずじゃなかった!」と叫ぶようなことはせず、前のめりに倒れることは闘志討ち死にを意味するのではなくて醜く生き残ること、凡じて理性の導きに従い私こそが生涯のライバルであり、社会の縁として全体の五パーセントを常に念頭に置き、社会学と利己的なる遺伝子の集合体のロジックをわきまえて、同時に実現なることを実現させしめて道(未知)を歩んでいくのが妥当なところではないか。
 
 ってなことを、庄司薫の本を読んでると考える。実際に読んだのは前年の十一月中頃で、二十世紀の締めくくりは庄司薫の本で締めようと考えいた。が、仕事は忙しいわ連日徹夜になるわ土日出勤は当たり前で本を読むのは通勤時間の一時間程であとはぐったりとしてプログラミングしながら遊ぶ(頭のアイドリング)をするだけで精一杯だった。競争、もっと積極的に言えば男の闘争を拒否し別なところに価値観を求める。いや、価値観という排他的な考え方ではなくて、緩やかな時間を楽しむゆとり、金銭的な不安あるいは優越感、サラリーマン的な闘争あるいは利潤獲得に向かった協力的態度とは違った、もっと別な生き方あるいは歩き方を庄司薫は実践(実現)しているといえる。嫉妬心、隣の芝が青く見えるのは己に自信がないからなのか、それとも資本主義ゆえの理不尽さがあるのか、これを追求しない。これを常態とする道があるらしいことがなんとなくだがわかる。
 
 果たして、今の私がかつての私、高校生の頃とか中学生の頃に――大学生の頃は省いておこう、意図的な邪気と奔放と内向と破滅に自分を追いやることに必死だったから――何の落とし穴に気をつければいいのか、何をしなくて良いのか、アドバイスすることは何だろう。勉強をしなくてもなんとかなるとか、勉強はしなくちゃだめだとか、英語はやっておいたほうがいいとか、好きなものを見つけたほうがいいとか、多少はさぼることを覚えなさいとか、楽器を演奏できたほうがいいとか、将来的に継続できる趣味を持てとか、そういう一般的な示唆ではなくて、もっと個人的に言霊として握られる幾年経ってもその言葉だけを頼りにすることができる態度とか話し掛けとか導きとは何だろうか、と考える。
 つまりは自然体として続けられるもこそが自然体であって、息をすることのように日常的に本を読む私が出来上がったことは、私にとて個人的には極めて幸いではなかったか、と思う。

 平常体に戻しています。そしてやや早足で歩き体力をつけることを日常化させています。物を書くことであれプログラムを創ることであれ軌跡を残すことであれ。

update: 2001/02/13
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